昨日の日記の「お隣」に「東大」「京大」をおめざし(らしい)方の日記があって、
あのー、基本的なことを言わせていただければ大学を無事ご入学あそばしますまで、
ネットで日記はお控えになった方が合格への道はより近いかと、、、
その手の大学に行くのは研究者になることをうっすらとでも意識されている方だとばかり思っているのは間違いですかね、
私の「常識」はよく「ネット常識」とかけ離れているようで時々不安、わからんこと、多し。
スイカがうまいと言うだけの暑い夏、いつからスイカがうまくなったかというと、
案外最近で、ウーウェンさんの「北京の台所、東京の台所」を読んでからのような、
「医食同源」の実例を見せていただいたよい本でした、図書館で借りたけど、手元に置いておこうと今本屋で探し中。
北京の町は水がそれほどよくなく、夏は水分補給にスイカをよく食べるそう、
ウーウェンさんの本では「中華料理は「火力」とよく言われていても、家庭の火力は中国でも日本同様強いわけではなく、、」など、
「あ、なるほど」な「料理家」としてよく考えて「家にあるもの」で努力して、おいしいものを家族に食べさせようとする
その基本的な「在り方」を示されていてよかった。ウーウェンさんのシンプルな調理法には注目。
人が何を食べたかを知るのは面白いことで、「白州次郎、正子の食卓」も楽しめた。
私は白州正子の方を先に知っていて長い間白州次郎はその夫とだけしか知らなかった、
最近になって「アメリカと同等に交渉した」のどうのとやたら持ち上げられているが、
戦前に渡航経験のあった人はみんな、こんな感じだったんじゃないのかな、
食卓やお嬢さんのエピソードを読む限り、ごく普通の常識人であったような、やはり私は白州正子の方が好きかも。
食事を作ることはしなかった、とか、次郎はお客をもてなすのが好きだったけど正子は好まなかった、とか
「嫌なものは嫌」って感じがいいなあ。
朝日新聞に苅部直が阪大総長と「わかりやすさの危うさは」と対談していて、なるほどなあ、と、
これでわかった「つもり」になるのも危ういな。
読んでいてふと思ったのは、ネットでは「学校が悪い」「教育が悪い」「個性の尊重が悪い」とあまりにも安易な決めつけが多くて
特に「学校」に関しては「かつて」その場にいた「だけ」の人の発言が
まるで「今」の教育現場の「代弁者」であるかのように取り上げられるのが怖い。
同じ学校であっても3年経てばその在り方は鮮やかなまでにがらりと変わる、
それを実感していない人が「思いこみ」のあれこれ提案することがよいことかどうか、私は疑問に思う。
その時、その場で、その「中」で、あるものをよりよく導けるように苦労する、
その努力を目にしていない人にわかったように何かを言って欲しくない、努力した側だってこれからどうするべきか、なんてなかなか言えないものだ。
私が「わかりやすさ」で思い出したのはそんなもの。
最近の私は気むずかしい。