「らしさ」の圧力。

女性が子供を産みたくない理由の一つに「母親になれるかどうか自信がもてない」と読んだことがあって、これには私も大きく頷く。
この場合の「母親像」には具体性がない。ただ「母親なんだから」と言うだけだ、
それまで個人が培ってきた「個性」を「母親」となることで全て拒否されてしまう。
一度、子供を持った「女」にどれほど社会は圧力をかけてくることか、
と言うよりも「母親」という「コスチュームプレイを強要する、「善意の第三者」を装って。
「母親らしくふるまえ」と言われても、その「振る舞い」は皆が同じではない、
母親がそれぞれ違うようにその子供だって違う、
子供によって受け取り方が違うのだから、母親がただ世間の「目」を気にして「らしく」振る舞っても不信感を抱くだけだろう。
そもそも母親「らしさ」ってなんだ?子供を産んだ時点で「聖母」と生まれ変われ、と言うことだろうか?
それは「聖母」様も迷惑だろう、「聖母」様は、ただ「母親」であっただけの人なのだから。
世間の求める「母親像」とはあまりにも画一的で、皇太子妃の雅子様に同世代の同情が集まるのは
雅子様が「らしさ」を押しつけられる狭い世界で、それでも「戦っている」と感じられるからではないか、
世間一般は「紀子様」的な妃殿下「らしさ」を雅子様に求めているが紀子様は元々性格的に妃殿下「らしさ」を持つ人で
雅子様とは違う、同じように「ふるまえ」とは非人道的にすら私には思える。
それぞれの本当の「らしさ」を認めることなく、曖昧な「らしさ」だけを「個」を無視して押しつけてくる「世間」、
そういうものと戦いながら子供を育てる苦労を後に続く人にもさせたいと私は思わない。
「らしさ」に媚びないでいたいと思う「個」を、女性は「母親」になっても持ち続けていて欲しいと思う。
以前、小梨さんの日記を私は時々楽しみに読ませてもらっていて、
私は子供が欲しくて産んだ人間ではあるけれど「産みたくない!」と戦う小梨さんは立派だといつも思っていた。
「産みたくない!」の理由は様々あるだろうけれど、
やはりいったん「母親」として「見られる」不自由を小梨さんは苦痛に思われたんじゃないか、
私など、この2ヶ月ほど子供のことを書いたエントリに意味不明の絡まれ方をして、あげくに「子供のことを持ち出すな」などと、
要は「自分の思ったとおりに振る舞え」と赤の他人に押しつけてくる「マザコン」に最後には「キチガイ」呼ばわりされ、
統合失調症を患っているのでは」などと、気の毒な病気の方々に失礼な「偏見」丸出しのコメントを書かれたり
なんと「母親」とは生きにくいことか、としみじみ思った。
子供のために必死になる「母親」であること、それは私の切り離せない一部であるが、全てではない、
私が、「私」のままで、「母親」であること、それ以上のことを私が子育てに望んだことがあるかどうか。
私は「母親」をコスプレしようとは思わない、それは女が「女」をコスプレさせられるのと同じだからだ、
装いながら本当の「母親」なんてやっていられない。
「子供を持つのが怖い」人はこの第三者達の訳のわからない「強要」を一番おそれている繊細な人なんだろう、と思ったり。
男女平等で「父親らしさ」も求められるようになって、「子育てマニュアル雑誌」が発行されるようになったのかな?
「らしさ」の圧力はすごいな。