色々。

学校と塾の違いを書こうとする思うことがありすぎてまとまらなくなった。
学校教育を批判するのは、学校で、与えられたものの中で、なんとか努力している側だけがやっていいことだと思う。
と言って、私は子供達に「あの先生の授業はつまらない」なんて愚痴ることは許していないが。
これは「礼節」の問題だ、確かに「これは、、、」と思う先生はいるものの、子供がそういうことを言うのは馬鹿げている。
面白くない授業でも我慢するよう努める、それも学校での「勉強」の一つだ。
科目の勉強「だけ」のために行くところではない、と言う点が「学校」と「塾」との違いだろう。
最近わかってきたのは、「ゆとり教育」とは「ゆとり」と名付けられた時点で不利だったこと、
「ゆとり」という言葉の呪縛にとらえられると、全てが「ゆとり」に見えてしまう、私もそうだった。
この教育方法は非常に新しいものだった。考え方にそれほどの間違いはない、微調整を続けてより充実出来るはずだ。
今回の新しい試みの最大の失敗(?)は施行される時期が悪かったこと、少人数学級制を同時に行わなかったことだろう。
一クラス、多くても20人程度でやっていれば別の結果が得られたんじゃないか、学校の統廃合なんてやっていいのかどうか、、
下の子と一緒に勉強していて、やっとその「良さ」のようなものがつかみ取れてきた、現場の先生方もそうだと思う。
いやー、この年になって「コグリョ(高句麗)」「ペクチェ(百済)」「シルラ(新羅)」なんて言葉を覚えるようになるとは、面白いものだ。
重慶」はなんだっけ、40過ぎると記憶力が、、、
最近、「ネットで何故書くか」を考えている日記をいくつか読んだ。
「理解されたいため」と考える人もいるようだし、「残したいため」と思う人もいる。私は「後者」の方だ。
「理解」は配偶者がここを読んでいるので私はそれをすでに手に入れている。
別の理解を得られることもあるのは思いがけない「贈り物」だ、期待して得るものではない。
よいことも悪いことも、全て「残す」こと、これを阻める他者は私には存在しない、これは私が確実な「理解」をえているためかもしれない。
ただ「残す」、どれほど馬鹿げたことであっても「残る」、これをやめてはいけない、
そして「言葉」は「言葉」に過ぎないことをどの程度私は「残せる」のか、私は「言葉」の皮相さを子供に教えられるだろうか、
言葉で他人をとらえられると信じている人間は哀れだ、私は子供にそういう人間にだけはなって欲しくない。
「ここには言葉しかない」とあるところで読んで、それではここに「真実もない」と私には思えた。
本当にネットでは「言葉」しか存在しないんだろうか?
どれほど完璧な論理であってもそれが「間違っている」と気がつく人もいるというのに。
凍結方法でつけた梅シロップを飲むと「酸い」、砂糖がこんなにも「梅」味になるとは。意外だった。
さて、40肩が直ったようなんでパンでも作るかな。