ネットの話題。

「ぶっ殺す」と書いて警察に通報されたのどうのと某所でごちゃごちゃやってるな、
それに関連してか、子供にそういうことをさせないためのリテラシーを考えているところを読ませてもらった。
「誰かがみている」というのは有効な手段かどうか、とのブクマコメントもチラッと見かけて、
この「誰か」というのは自分を見つめるもう1人の「自分」で、その「自分」を子供の中に作り上げるのに有効じゃないか、と思う。
リテラシー教育か、フィルタリングか、私は一定の年齢になるまでは子供が読むものは親も目を通しておいた方がいいと考えている。
「いつまでも」ではないし、全てを知るわけにもいかないのだけれど、出来る限り知っておくこと、
「親」が「知っている」と子供に「知らせておくこと」は、子供にもう一つの「視点」をもたせることではないか、
「自分がおもしろがっているこれを親はどう思うのか」、それに気がつけば自制心は生まれてくると思う。
「誰かが必ず見ている」とは自分の中に想像上の「他人」の目を持たせることだ、
「私のしていることは一体何を意味するのか(と、思われるのか)」と「考えること」、
実は「誰か」の目ではなくそれが「自分」の目であるといずれ子供にもわかってくるだろう、それが「成長」だ。
ただ、その「他人の目」がどこまでも自分に甘いと信じ切っている場合もあるだろう、
「私は何をしても許される存在だ」の感覚をもっている人は匿名の世界では多い、私も例外ではない。
また、「誰かがみていても、いや、誰かがみているからなおのこと」と私はその意識を持って書くことがよくある。
いい年になってもこうなんだから、「リテラシー」なんて教えられる立場なのかどうか、、、とほほ。
子供の話に戻して、もう一つの「目」を育てること、これがうまくできるかどうか、
その「目」が厳しく自分に注がれているのだと考えられるかどうか、
小さい頃の「刷り込み」だけで有効かどうか、まだ私にはわからない。
「親が知っている」ではなく「誰かが知っている」、この「誰か」が具体的に「誰」であるか、子供にとって「謎」なのが「有効」かな、
子供の想像力の中でその「謎」の「誰か」はどんどん育っていくかもしれない、その方が子供のためのような気もする。
私は具体的に自分の子供に「親」として「見ています」=「見張っています」をしてしまってるんで
よくない部分があったと今頃反省もしている。どうしても「親の顔色をうかがう」になってしまうので。
「謎」の「誰か」を育てさせるべきだったと思いつつ、不思議なことに下の子の心の世界には「誰か」がいそうなんで
こういうところも個人差があるかな。
ところで「ぶっ殺す」の「幼児言葉」だけれど、好きなだけ言わせておくといつか言うのに「飽きる」こともある。
子供によってはそれを言うことで周りの大人がどういう反応をするかを見て楽しんでいたりするんで、
まあ、お子様に併せてお考えください。うちは女の子なんで言いませんでしたが、よく言う男の子は知ってました。
「ぶっ殺すって何?」ときくと、「ぶっ殺す、はぶっ殺す、ぶっころーす!」しゅた!っとポーズをとったりして、呪文だよなあ。
その呪文、有効じゃない大人もいる、といつか子供は気がつくんで、放っておくのも「手」かな。
いい大人になって「ぶっ殺す」は呪文にもならんよ、警察を呼び出す呪文にはなるか、まあ、そういう感じですな。
「ぶっ殺す」は、実名を出している若い女性にはきつかろう。その点でお気の毒です。
でも自分の写真を晒す、特に「女性」は、もう「黄金の一枚、ベストオブベスト」を貼るんだなあ、と知った件でした。
片山さつき議員のホームページ写真を見るまでもなかったですな、、、
追記;さっきこちら(http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20080516/p4)から
   わざわざ「馬鹿」との素晴らしいご助言をいただいたのに気がついたんで、
   コメントしました。
   私に喧嘩を売るとは「放任主義」のお子ちゃまですな。
   それとも日々親に「監視されている!」の被害妄想炸裂ちゃんでしょうか?
   反応が楽しみです。