おやすみちゅうに、いろいろ。

ゴールデンウィーク中で、ネットが静かなのをいいことに、気になることを適当に書いてみる。
私は北京五輪に鉄球を提供しないおっちゃんのことが何故「美談」になるのかよくわからない。
職人さんの単なる気まぐれのように思える、
結局、その鉄球を愛用している選手達に残念な結果しか出せないかもしれない、
選手にとっては大事な4年に一回の機会を奪うだけでしょ?
それって「美談」になるのかな?中国が困るよりはむしろ選手が困る、
選手だって、それぞれの国家を背負って出場するんで、個人的に出場を拒否するなんて簡単にできることじゃない、
色々あってもそれを飲み込んでただ「記録」にかける、のが選手達の責任だ。
その責任を果たすことを阻むような話が私には「美談」に思えない。
それを妙に持ち上げるのはおかしいような、使う選手達、つまり大事な「顧客」達のことを考えてるのかな、
一徹ものの職人さんにありがちな傾向だろうけど、選手達にとっては「美談」ではなく「とほほ」だ。
まあ、おっちゃんにもそこのところはわかってるらしいが。これを「よくやった!」とするのはな。
長野でのチベット支持者への扱いがひどかったらしい件についてあちこちで書かれているが、
私は元々、長野のような世界からみてローカルな地域で日本人が旗を振ったところで何になるんじゃ、としか思えないので
何を読んでも「ふーん」って感じかなあ。
「そんなことはない!世界が注目している!」って、世界で注目されても、肝心のチベットに「住んでいる」、
実際「チベット」という国で、何らかの被害に遭っている人たちに「注目」されているのかどうか、
ごくごく一般的なチベットの人たちは今は完全に情報を封じられているだろうから、
世界のどこであったとしても「フリーチベット!」と「中国憎し!」でそれまでチベットの存在さえ知らなかった人が旗を振っても、
全然伝わってないんじゃないか。伝わったとしても、それを喜ぶのかどうか。励ましになるかな?
「なに、これ?」が感想じゃないかな。「かえって迷惑」が本音だったりして。
そういうことを沖縄の少女の事件の時も書いてた人が結構いたなあ、
「左翼が勝手に騒いで沖縄の人は、少女は、かえって迷惑してる」って、
フリーチベット!」と言ってる人とかぶってるきもするな。
結局、「チベット」は「外国」で「沖縄」は「日本」、お気楽に「世界とつながってる!」の高揚感が味わえるってことか。
フリーチベット!」と叫べる人はチベットにはいない人、チベット人であっても逃げられた人、
国から逃げることが「出来た」人、と言うのはある意味「選ばれた」人たちであって、とりあえず今は「安全圏」にいる。
逃げられずに国に留まっている人、弾圧があっても、ただ耐えている人、私はそういう声のない無数の人たちが気になる。
フリーチベット!と世界中が叫ぶことによってより中国がかたくなな立場でチベットに人を入れない状態を長引かせれば
チベットが今、どんなところであっても、ただ静かに生活をしていきたいと思っている人をより苦しめるんじゃないか、
日本の「けーさつ」が何もしてくれなかったぁ!ってなにを泣き言を言うとるんじゃ、「チベット気分」が味わえてよかったろうに、
そのぬくぬくした被害者ぶりがいやだ、と、まあ、自分がいやだって言ってることと同じなんだけど。
大体「活動家」とは、今回の日本で「警察に弾圧されたー!」と騒いでいる人をのぞけば、
それなりの「覚悟」をもって活動しているだろうから弾圧にあってもある程度の心構えはあるだろうけど、
そうじゃない、何が起こっているのかよくわからない、でも締め付けが厳しくなっただろう普通の「チベット」の人たちに
この先、何が出来るか考えたら、自分たちだけが「逃げてきた」の罪悪感を必ずもっているだろう、
チベットの人たちを怪我をしないように、自暴自棄になってしまわないように、押さえることが大切だったんじゃないか。
「警察が「善意の僕たち」を弾圧したー!」って、やっぱり「可愛い自分」かよ、とうんざりしたのでした。
「可愛い自分」なのは私もなんで、せめてその「意識」はもっておこうね、と思ったのでした。
私は活動家ではない、おびえて暮らしている普通の人たちのことだけを心配する。それが「自分」であるから。