雑記。

私がど忘れした国名を「ボスニアでは?」とコメントしてもらったのだけれど、ちょっと確認が出来ないなあ、、
ポーランドルーマニアチェコか、「プラハの春」の後、「民主化」は夢となった、、みたいな、1960年前後に
特派員としてヨーロッパにいた人が書いた本で、その国が「西側」に向かって「我々を助けて欲しい」と放送を流した後、
ぷつりと音信が途絶えた、とかいうくだりがあったような、、、いや、もう勘弁してくださいよ、この記憶力、ってかんじ。
ボスニアに関しての記憶は私にとって新しいもので、でもそれ以前の歴史があるわけなんで、
私が思い描いている国ともつながりがあるんだろうな、東欧の歴史は入り組んでいて難しいす、、
ボスニア、と言えばサラエボ、だいぶん前に朝日新聞で戦時レイプ被害にあった女性とその子供のその後を描いた
サラエボの花(GRBAVICA)」の紹介がされていて、「レイプキャンプ」のことを知ったのは当時ではなく、かなり後で、
同じ時期に子供を産んでいる私としては非常に衝撃を受けた。多分、生まれた子供はうちの子供とそれほどかわりがない、
母親が子供を見捨てたとしても、私はその母親達の気持ちがよくわかるし、戦争の暴力がどれほどひどいか、
女を「産む機械」と徹底的に貶める、その卑劣を心の底から憎まずにはいられない。
どこでも戦争が起きればすることは同じ、子供を飢えさせ女を暴行して凱歌をあげる、結局、弱いものいじめでしかない「戦争」。
こんなもののどこが「正義」なものか、千年、二千年昔から全くやることが変わってない、
このことを恥じる現代人はいないのか?これを克服できていない「人間」という存在を恥じよ!と思う。
まあ、どんな動物でも多分何千年も前からやってることは同じだろうけれど。でも、人間は「人」なのに。
それはともかく、最近、実家の母親から子供時代の話を聞くことがあって、
母親は医師だった父親を軍隊にとられて貧しい生活をしていたので、子供時代の食べるものの記憶が鮮明で悲しい。
母が住んでいた山奥にも、「天皇陛下」をまつったほこらか塚のようなものがあって、そこには常時軍人が二人いたと言う。
母はそのへんに、かむと甘い根っこがたくさんあるのを知っていたのでよくほりに行って、
それを見た軍人が色の黒い母を「土人じゃな」と言って笑ったそうだ。
その軍人は真っ白いおにぎりの弁当をいつも食べていて、母がひもじくて根っこを掘っているのを知っていても、
自分たちは毎日おにぎりの弁当をそこで食べているのにもかかわらず一度として幼い母にそれをやろうとはしなかったこと、
その時の母はそれを「当たり前のこと」と思っていたそうだが
今思えば、やせた小さな子供におにぎり一つ与えることのなかった、戦争が終わって進駐軍がきたときには影も形もなかった
あの軍人は、一体何を守っていたんだろう、あの意味のない「塚」か「ほこら」になんで二人も軍人が必要だったか、
なんと無駄なことをしていたか、当時、戦死の公報はまだ入っていなかったが、
祖父は昭和19年の春頃に戦死しているらしいので、悔しくてしょうがない、小さな子供だった母には口に入らなかった
白いコメのにぎりめしを何度も夢にまで思い出す、と私に話す。
70を過ぎて、もう十分なほど食べるものはあるというのに、
それでも子供時代に飢えた記憶はずっと残るのだな、とやるせなく思う。
母は、だから沖縄の集団自決問題など並々ならぬ関心を持っていて、「卑劣な軍人が!」と憤る。
それにしてもあんな田舎に住んでいてさえ、コメが食べられなかった母の貧しさには心を打たれる。
場所によってはコメがあった、の話も聞くがそういう事情の偏りには、何かがあったんだろう、と考えている。
そういう記憶をどれくらい残せるのかな、聞くことがある度に少しづつ残しておこうと思う。
紛争であれ、動乱であれ、戦争であれ、やっぱりいやですよ、本当にイヤだ、、