ネットで「日記」を書くと言うこと。

我が愛しの「タマネギ2号」氏が「ブログやめちゃいたい」と可愛いご意見を出されているようで、ほほえましい。
要は「俺の気に入らないことを書くな」ですな、ではそういうものを「読むな」と心の底からおすすめするわけで。
「書きたいことを書く」んですけどね、私は。
世界は言葉なんかで簡単には変わらないってことをわりにいい年であるこの方は全くわかってなかったのがナイーブで泣ける。
つか、こんなぬるい人が出版関係の仕事をしてるんすか?衰退するのは無理ないですな、
だって世界を変えるのは言葉「だけ」ではないですから。
言葉は大切ですよ、でもそれと同じくらい「行動」も大切です、
その「行動」がつまらないものであっても「毎日書く」であったり、「心の叫び」=「罵倒」であったり、
その「言葉」の「行動」の意味合いがとれないんなら、書くのやめたらどうですか?
あなたの「言葉」で世界が変わるとは私はかけらほども思いませんし。
でも「情報」として利用されている方は多そうですよね、そういう「役割」を自分で担ってるのかと思ってました。
ご自分が好きな3K新聞を嫌いな人が多いからと行って、「ぼくやめちゃいたい」なんて、
「世界」を変えようと少しでも思ってた人とは考えられないですな、少なくとも「私」は。
「世界」かあ、、、すごい「世界」だよなあ、あれだけ「俺様」口調で劣化ウラン弾のことを熱く語ってた人が
それを書き直せばこんなにも穏やかに「いっヤーン、罵倒、怖いですぅー」と書けるとは。
もちろん、書き直したからには反省があったと思います、そのことに関して私は責めません、誰にでも間違いはあります。
でも、自分は間違いを犯していた、と思ったなら「今」同じような間違いをしている人を責めることは出来ないはずだと
「私」は思いますし、また、同じようにこれから反省して書き直す、あるいは一切反省せずにこのまま突っ走る、も
一つの「世界」の変え方、として認めてもいいようにも思いますが、ま、これも「私」の考え方、
決して「3K新聞を責めちゃ駄目」、とほのめかす人とは違うと思います。
なんのために「書く」か、ですが、私は「未来への手紙」として書いています。
愚かしい過去の人間が毎日どのようにあがいたのか、果たして「普通の主婦」が「竹島」をこよなく大切に思ったかどうか、
遠く離れた未来の冷静な人間にあてて書いています。
その時代の匂いを知らない人が、実際に不特定多数の過去の人間が何を知って、何を不安に思ってたか、知りたい、
と願ったときに私のあほ日記が残っていたら、ちょっとは役に立つのかもと考えて書いてます。
私のくだらなさ、悲しみ、怒り、何もかも、少しでも理解してもらえたら、と思います。
リンクを張らないのはそのリンク先が簡単に書き直されたり消されたりするからで、
私は書き手がそれをする「権利」を認めてるんで「魚拓」もとりません、
決してお気に入りの3K新聞が少数の書き手に反論されたからといって「ぼく、ブログやめるかもー」とへたれごとも書きません、「私」はね。
ネット上で他人の「書く」ことを個人的な「好み」で判断して、それを「問題」としてとらえるのなら、
もう「書く」という権利を有してないのかもしれません。
私は、自分の現実の生活がネットで脅かされることがない限り、出来る限り「書く」ということを
いずれ確実に過去の人間となるものの「義務」として続けます。それが「世界」を変えることではないですか?
この混沌とした「世界」に愛情を持って、時に「罵倒」し、時に「かみつき」、私が「生きた」ということを残します。
「タマネギ」氏と違うところはそこでしょうね、だって私は「人間」だもの。私はやめません。
多くのものを次世代に残してやれない世代が、せめて残せるのはつまらないものであっても「続ける」という行動、
それが一番大切なことだと私は思います。

追記;(沖縄少女暴行事件の米兵が釈放されたことを受けて)
つまり、米兵は「挿入」さえしなければいやがる「子供」の身体を触ってもいい、と言うことで。
言葉巧みに「レイプ」の意味さえわかっていない「子供」を連れ出して、「セックス」出来ないとなれば
外に「1人」で放りだしても、被害者である「子供」の「しつけが悪かった」で「処理」されるわけで。
「しつけ」ってなんだろう?米兵様が「大人」と思いこんだ「子供」がその相手を十分につとめなかったとでも言うように
被害者を責めること?
「子供」を連れ去って、そうとわかった後も家まで送りもしなかった米兵の「道義」的責任を求めるのは無理なのか。
被害者親子が「そっとして欲しい」とは3K新聞愛好者で「しつけ」万能主義者が騒いだせいかもしれないな。
その気持ちはよくわかる。「子供」に再び同じことを思い出させ証言させるのは無理だろう。
「子供」に加えられた「暴力」にこんなにも冷ややかな人間が多かったことに、今もむなしさを感じる。