私の日記は書き捨て以外何者でもなく、設定をいじることがないので、昨日はご指摘を受け四苦八苦した。
未だに何故私のところでは「はてなユーザーのみコメント可」にしていると、「コメント欄」が表示されないのかわからない。
「はてなユーザーのみ」であってもコメント欄が出てくる方のところもあるし、私同様にコメント欄が出ない方もいた。
でもこれはこの方が設定されているのかもしれないので、確かめる術もない。
行ったことはないけど、「ネットカフェ」なるところに行ってコメントが出来るかどうか試そうか?とも思ったが、
そこまで、と言う気もする。有料のオプションを何も使ってないせいなのかな?
(その後、時間をおいて同じ方のを見てみると、またコメント欄が出るようになってる、やはり「はてな」の問題か?)
でも、「ただ」だからやってるんで。有料になれば憧れの「エキサイト」に行きます。(わはは)
娘が志望校に1回で合格したというのに、何をやっとるんじゃ、私は、としみじみ思うなあ。
何か注目の話題に関わり合うとそれをずっと続けなければいけないように反応されるのは困る。
「日記」、を私は「毎日書く」に考えているので、その「時」その「時」の「思い」しか書けない。
どこに視点を置き、それを変えないか、あくまで「私には」だが、些末に感じられることを指摘されても
それはもう仕方がない、としか言いようがない。
私が書いていきたいと思うのは、一つの事件に対して反応する人のいろいろ、
励まされたこと、慰められること、そこから感じたこと、などだ。
他の人がどう感じたとしてもそれに対する応対は、したい、と自分が思えない限り、したくない。(ごめんね)
その反応を身勝手に考えられるとは思うが、その評価も覚悟の上だ。
今回のコメント欄の件では私の方に問題があるのを指摘していただいたのはありがたいと思った。
してもらわなければ、気がつかずにずっと腹を立てていたと思う。
ブクマコメントで学ぶことは多く、今回の(沖縄の)事件で書いたものについて、
特に私が考えさせられたのは「人の悲劇を自分達の処世訓にする事の疚しさに、僕も自覚的でいたいですね。」で、
私自身、いつもそれが出来ているだろうか?の反省を今している。
子供と母親の関係に関する限り、非常に敏感になれるけれど、他の部分ではかなり雑だ。
このことに私も自覚的でありたいと思う。
私が親子の関係などに敏感なのは多分、ずっと「脅されながら」育児してきたように思うからだ。
それが一番、若い時は苦痛だった。
いつも「こんなことで大丈夫なんだろうか?」の気持ちがあって、心から育児を楽しめてきた、とはいえない。
もっともっと、子供に「批判」の枷をかけずに思いきり愛してみたかった、「あれはいけない」「これはいけない」と言わずに。
でも私が幼児を相手にしていた10年ほど前以上に、今の育児は過酷な気がする。子供に注がれる視線に余裕がない。
人前でキレておこるのだって毎日面倒を見ているものの愛情の一部だ。そういうことへの理解が足りない。そんな気がする。
口うるさく不安定な母親の元であっても子供はなんとか育ってくれたし、
また、もし、私が育てたが故に、子供達にこの先何かあったとしても
子供の頃、どう見ても母親が母親として機能していなかった方なのに、
やさしい気持ちを持ち続けている人達が存在するのをネットであっても(ネットだからこそ?)確認出来るので、心強い。
このことについて、ちゃんと書いておきたい、と思いつつ、今年は卒業式、入学式2回、で、ばたばたしている。
娘の受験記や、私が思う「親であること」とか、あれこれ書き留めたいものはあるがどこまで出来るか、、
あなたがいてくれて、本当にありがとう、と思える人がネットに存在するのはうれしい。
私は失敗ばかりなのだけれど、こっそり慰めてくれたり、いつも好意的なブクマコメントをくれる方にありがとう、とここに。
ぞんざいな書き方だけれど、感謝はいつも本物です。(謝罪も、だけど。)