ぐちぐち。

昨日の先生は、「言葉」というものの本質を、見極めることを教えてくれたように思う。
あの先生だったら今「徳育」なんてのが「教科化」される、と聞いたら「それは「徳」ではありません」と言うだろうな。
徳育」とは、そういうことを教えてくれる先生の存在そのものだろう、
そんな存在に圧力をかけているのはやたらと「徳育」なんて言いたがる輩だというのが悲しい。
私の「いい先生」の定義は、何か一つでも心に残ることを教えてくれた人であるということで、
思えばものすごく求めるレベルが低いのかもしれない。だから私は子供の担任の先生に文句がなかなか言えない。
しかし今年の下の娘の「ウヨク先生」は本当にひどかった。書けば再び腹が立つんでかけなかったことが多いが
先日は娘が好きな色を聞かれて「青緑色」と答えると「それは赤ちゃんが泣き叫んでいやがる色です」と
みんなの前で言われた、と聞いて、さすがに頭に来た。
色々考えたがもうすぐ卒業であることを考えればあれこれ言っていくのも馬鹿馬鹿しい。
それに一部父兄には「はっきりものを言ってくれていい先生」などと評判がよかったりする、やれやれ、だ。
幸いなことに、はじめあまりに物珍しい件を言うので心惹かれた下の子が上の子にこっそり言ったことによると、
もう嫌気がさしている、あの先生は変だ、そう思っている生徒も結構いる、でもみんな言わない、と、
先生には、もうなんの期待もなかったようで、好きな色を「変な色」扱いされてもそれほど傷ついていない。
「先生の思う青緑色とあなたの思う青緑色は全然違う色だから、先生は汚い青緑色しか知らないの」なーんて、
精一杯の嫌みを子供に言ったわ、「あなたの思う色はどんな色でもきれいな色」と、見よ!この「差別」化!!
下の子は無邪気だからうっかりそれをお友達に言って先生に伝わってもかまうもんか、もう卒業だ、はっはっは。
つか、もう、たびたび、「失言」としか思えないようなことを言ってたんでそれを聞く度に訂正して、またそれを下の子は
丁寧にお友達に伝えて、それが回り回って先生の耳に入ってるっぽい、でもね、聖徳太子ユダヤ人だったかも、とか
そう言う「どうしよう?」な香ばしい意見を聞くととりあえず訂正せずにはいられないわ、あぁあぁあぁ、、、
今年、役員をしなかったことがしみじみ悔やまれた。役員をしていればもうちょっと手段はあったのだけれど。
上の子から考えて、小学校で延べ12人の先生にあたって、その中でも出色の出来だったのが今回の先生。
「はっきりものを言ってくれていい」という父兄は自分の子供に対してはっきりものを言われたわけではないのが「みそ」。
「先生の思う色はきれいじゃない色」なんて私が言ったと伝わったらさぞかし先生はお怒りでしょうが、
それくらい言いかえされても当然です、全く。
そう言う先生からでも子供は何らかのことを学んできているのが子供が子供であるが由、だいぶん、私も我慢しました。
子供が我慢しているのに、親が我慢できないでどうする、と、
セクハラ、暴力、とかは論外だが他のこまこましたことは苦情を言っても無駄なことが多いです。これはある程度本当のことです。
「反面教師」という言葉を私は愛用しております。
「あれ?」と思うようなことは、例えそれが先生の言ったことであっても自分で考えろ、と少しは学んでくれたかな。
「やばそうなことは親がうるさいから言うな」しか学んでなかったりして、とほほ。
そう言えば水戸の小学校で給食費未納の低学年の子供に、みんなの前でそのことを言ったという先生、
そのことを聞いて学校に苦情を言ったその子の親ではない別な保護者は立派だな、と思った。
払わないのは悪いですよ、でもそれは子供のせいじゃない、位の見識を先生には持って欲しいものだ。
癒し系の下の子が先生を見放すとはよほどだった、と自己弁護。基本的に私は先生の悪口はよくないと思っている。
でも我慢も限度が来ていた、いや、今年はすごかったっす。