以前書いた行事食の雑感について「宗教はうまくなくちゃ」という内容のトラックバックをいただく。
なるほど、そう言う考え方もあるか!宗教、恐るべし。食べ物で懐柔して教えを説く、、、なんとなく納得。(ちがう)
だから「共産主義」(マルクス主義?)は「宗教」を禁じるのか!なんちゃって、より迷走する私。
「修道士カドフェル」シリーズを読んだとき、修道院というのは戦乱の多い中、
庶民の暮らしを出来る範囲でよりよくしようと、知識をなんとか保存するために「宗教」の形をとったのかな、と思った。
ミッション系の大学で4年間宗教の必修講義で色々教わってきて、宗教に対する偏見はかなり薄らいではいるものの、
私は時々宗教を自分を「飾る」何かであるかのように振る舞う人に出会ったことがあって、
(と言うより、自分が信奉することでその宗教を高めているかのごとく考えている)そんな「宗教」にはやはり引く。
大学ではもちろんそんな人ばかりではなく、真に尊敬できる宗教者にも出会えたので、
他人を圧迫するがごとくの「宗教」を振りかざす人はごく一部なんだとわかった。どこでもアホは目立つ。
教育学を教えていただいた神父さんから
「あなたが神様を信用していなくても神様はあなたを信用している。あなたが神様を愛していなくても神様はあなたを愛している」
と言われて、時々その言葉を思い出すことがある。「神」とは「寛容」そのものであると私は思う。
「行事食」は本来お祭りで「うまいものをみんなで食べる」だったり、生きる楽しみを分け合う意味があるんだろうな。
禅寺での料理の発達は忘れてはならなかったけれど、行事食の「神」と「仏」はまた違うような気もする。
でも確かに「宗教」はうまい。まちがってました、すみません、ご指摘ありがとうございます。
「自殺」を強く戒めるカトリックでおいしいものを食べさせて生きる活力を与えるやり方は正しい。(再び迷走)
そう言えばバター飴は食べなくなったなあ、、アイヌの人の絵が書かれたフェルト(?)の布袋に入ったのが大好きだった。
2年前、旅行したときには見かけなかったような、、、(空港はあまりに人が多くて)
「神」と「仏」を「宗教」で雑にくくってもやはり「宗教はうまい」、正解だと思いました。