お休みの予定でしたが。

障害者の人を書いたエントリのブクマから「リアル」という言葉までいろんな意見があるのを拾い読んで
私が「リアル」と使うときは「ネット」に対して「現実世界」の意味での「リアル」と使うな、と意識した。
しりあがり寿原作「真夜中の弥次さん喜多さん」の映画の中で長瀬君が「りやる」という言葉を繰り返し使って、
その「りやる」の「りやる」感に、ぐっと来た。
時代の言葉だよなあ、これを長瀬君に「りやる」と言わせたクドカンや「リアル」を繰り返した原作者のしりあがり寿
上手く、その言葉の「空気」をとらえてると勝手に思ったんで、多分若い世代の持つ「リアル」が「りやる」でしかなく、
それは「現実」ではないんじゃないか、クドカン達は「現実」との境界の曖昧な世界をからかっているような、、
ま、あの映画に「ネット」は出てこないけど。
話題になっている「障害者の物語」(?)は途中でいやになってしまって完全に読んでいない。
後出しじゃんけんであるが「あざとい」でしょう、「流れ」が途中で見えてくる。
でもその「流れ」、に身を任せたい人は多くいて、そういう話なんじゃないのかな。
あの流れの「あざとさ」をきちんと検証する人たちがいて、勉強になった。
私があの流れに乗れなかったのは途中でうんざりした自分にうんざりしたからだ。
あれを「あざとい」と感じる自分は「障害」を匂わされたらなにも言えない、と思ったんで、
私もあの「りやる」を「リアル=現実」と信じた、そういうこと、いやはや馬鹿だね。
障害の段差、とはっきり書かれると、あっと思った。
恐ろしい「ネット」のねばねばした「りやる」にあっさり絡め取られた私に一筋、「言葉」の光の糸が、、、、
その糸はアリアドネのものか、あるいは、カンダタ蜘蛛の糸なのか、
自分のアホさ加減でふっつり途絶えてしまわないように、自分への反省もこめて、日記に記録。
私の感覚もまた「りやる」をさまよう情けないものだよな。
愛しのタマネギ2号氏は、「リアル」ときて「しりあがり寿」を思い出さなかったんだ、何となく、あっちに行きそうに思ったけど。
今日は、必殺「見ずに捨てる!」を決行していたのでした。これはこれでつらい、
「リアル」の世界はつらいのよねえ、、