「言葉」を思う。

昨日、「母は初めて泣きました」を「初めて母は泣きました」と間違えていて、あわててなおした。
引用文ぐらいは調べて書きましょう、と反省。
私にとっては「初めて泣けた」が言葉として強く残るんだな、「母が泣いた」ではなく。
こういう言葉の使い方とか、言葉の響きによく引っかかる。
「ははは            「はじめて
 はじめて            ははは
 なきました」と         なきました」 
と、どちらも「頭韻」になってる部分を私は「たん、たん」の印象で受け止めて、
でも米倉さんは「はは」を「はじめて」より前に出したのが「母」を見つめる子供のまっすぐな視線のようで、より悲しい。
「ははははじめてなきました」、句読点を打たないとこんな感じ。
私は「頭韻」が好きで日本語でも大昔は「頭韻」の言葉遊びをしていたのに、
武家社会、男中心社会になってなくなったようで残念だ。(詳しくは知らないけど)
今「南京虐殺は「おこった」のか」という本を読んでいて、これがまた「日本語」への鋭いつっこみで
「ひぃいぃーすみません、、、」と謝りたくなる。日本語の曖昧な成り立ち自体を糾弾されてるみたいだ。
要は日本の歴史教科書における「日本軍」記述の詳細な分析なんだけど、ここまで、計算されて書かれているのか、
イデオロギー的なものはもちろんあるけど、多分、これを使う先生も生徒もそういう「日本語」構造のいい加減さには
ほとんど気づくことなくただ「言葉」の「羅列」として頭の中に無理矢理詰め込む、少なくとも私世代はそうだったんで
いやあ、参りましたって感じ。これ、英語で書かれたものなんだろうなあ、訳者がいるし、
英語で読んだらもっと面白いかもしれないなあ。
私は「議論」ってやっぱり「英語」圏の「文化」だと思う。「技術」というか、日本語で「議論」をするのはどうもしっくりこない、
(なーんちゃって、さも「英語」が出来るみたいですが)英語の方が、文章の構造とか、言葉の響きとか
やっぱり「議論」にあってるんじゃないかな、日本語のどこか「ぬるい」感じでは駄目なような。
言葉の持つ力はどこでも同じなんだけど、伝え方、考え方の違いが文章の構成とかかわって
文化や国民性、をあらわすんだろうな、それからどの言葉がどの程度残るかも。
ところで草薙厚子さんは起訴されないようだ、あの監察医の方はどうなるんだろう、やっぱり納得できない。
それから後藤さんのところで取り上げられていた「子供が壊れる家」の「タイトル」も嫌いだ。
「僕はパパを殺すことにきめた」も、やっぱりひどい。
タイトルは著者が決めるものではないかもしれないけどその「言葉」の使い方がさもしい、
教育者達はこの草薙氏をもっと糾弾すべきだと思う。(もうしてるのか?)
それから「モンスターペアレント」みたいに、新しくできた言葉がまた人を締め付けていくのも不思議、
時々新聞広告に載っててうんざりさせられる「学歴モンスター」なんてのも、私は大嫌い。
なーんじゃそりゃ、何でも「ゆーたもん勝ちかいっ!」って、なんで、私は最後には怒ってしまうんだろうなあ。
言葉には気をつけましょう。