とある母親の、長い、長い、叫び。

たいていの人間にとって「何もしない」のが一番難しいことだと時々思う。
「ただ生きているだけ」とは寝たきりになった老人だけができるのか、と考えていたら
最近医療関係者である身内が
「寝たきりと言ってもこちらが気がつかないだけで内部できっと活動している」と言って
なるほど、と思った。
人間のすべての行動は生きていることへの「いいわけ」か、と考えることもあって、
でも「せずにはいられない」、「本能」的なものか、とも感じている。
医療関係者である身内は「延命治療」という言葉が嫌いで
「それを言うんだったら、肺炎の治療だって「延命」だ」と
そのどこかでご都合主義な言葉の解釈に反発している。
人は最期の最後まで生きられる限り生きるべきだ、とたとえ寝たきりであろうがなんであろうが、
「生きてても仕方がない」なんてまだ生きられるのに言うのは間違っている、と
ふと私は上野千鶴子さんが「PPK(ぴんぴんころり)運動」の欺瞞に憤っていたことを思い出した。
「生きているのなら何かせねばならない」、人が活動することへの理由付けのような、
「本能」に従って行動しているだけのことが
「生き甲斐」とか「人の役に立つ」とかに結びつけられて、適当な解釈となる。
役に立たなくなっても人は生きて、活動もしている、と、命について、自分への戒めとして色々考える。
育児活動で一番難しいのが実は「何もしない」ことだと、
もう中学を卒業しようとする娘を持つにもかかわらず痛感することが多い。
つい、手を出す、それがいいことか悪いことか、育児は長期的に考えなければいけないことなので
判断が難しい。本当に手を出していいのか、あるいはただ見守るだけでいいのか、
この先どうなるのか親にもわからないだけに恐ろしく不安だ。
「あのときああしてくれていたら良かったのに、、」とはかつて子供だった誰でもが持つ思いだ。
でも今の自分が嫌だというのでもない、ある意味あきらめを持って自分を受け入れることを
学んできている。そのあきらめが妥当だったかどうか、今でもわからない、
でも少なくとも自分の子供を愛していて、幸せを願い、出来る限りのことをしたいと考えている。
しかし世間はそういう親をも圧迫する「正論」で充ち満ちている。
「その子供の幸せを願う心とは結局自分のためじゃないのか」
「自分がかわいいから子供をかわいがっているだけじゃないのか」
「おまえの子供なんかなんだ、おまえなんかはは親失格だ」
「あなたに育てられる子供が気の毒だという気持ちにかわりはありません」
ええ、そうね、本当にそう、なんてあなた方は正しいんだろう、
この世の中がそんなにも正しいだけでありますように。
生きていこうとする人間を「役に立つ、立たない」で判断する、
そのまぶしいばかりの正論に何も言うことはありません、
確かに「役に立たない人間」は「処理する場を設ける」べきなのかもしれませんね、
でもあなたご自身は?本当に「役に立つ」人間ですか?
「そうだ」と言えるのなら、「どこが」「どのように」役に立つのですか?
他人を排除するだけの考え方がこの世の中の役に立っているのですか?
「あなたに育てられる子供が気の毒だという気持ちにかわりはありません」
ネット上ではそんな言葉も「正論」としてまかり通る。
「解釈」は自由だ、現実世界で育児に今もなお苦しむ私をいつまでも傷つけていても
「本当のことだから」でやり過ごされる。
でも「所詮そういうことでしか絡むことの出来ない人間」、子供をねらうことで自分を正当化する。
「子供が気の毒」、その一見「正論」にすでに親となった私たちはあらがうことが出来ない。
子供を本当に愛しているから。もし自分が親でなければ子供が幸せになれるのなら、
親をやめていいとさえ思うこともあるから。親でなければ何でも言える、
そして子供を持つ権利を有しながら持てない人間であるという「免罪符」も役に立つ。
そういう人間が言うことが本当に「正論」か?私は実はそうは思わない。
親であることを攻撃されて深く傷つく心が親であるという証であり、
子供のために何かしてやりたい、でも何かすることが「良いこと」かどうか迷う心が、
もっとも子供を深く思う心であると、それが子供に伝えられているかどうか、
どこにも確証はないけれど、また子供の「役に立つ」かどうかわからないけれど、
「自己愛」ではない「無償の愛」だと私は信じる。
「おまえが信じているからなんだ」と当然せせら笑いが聞こえてくる。
でも、「あなたにはわからない、私にはわかる」とだけ書いておこう。
私は「母親」を「圧迫するもの」と常に戦いたいと思っている。
結局、「あのときああだったら」という考え方は「3歳児神話」の刷り込みだと私は感じている。
「正しいこと」だとか、「良いもの」「理想の親」、
その画一的な言葉が本当に「真実」であるかどうか、私は突き詰めていこうと思う。
今の母親達は本当に努力家達だ、自分を含めても心から思う。
出来ることは何でもやりたい、でも出来ることをあえて控えることも、
「子供のため」ならやろう、と思う。
そういう、人間がすることで一番難しいことさえ選び取ろうとする心が
本当に「自己愛」でしかないのかどうか。
私は赤の他人から「自己愛の延長」と非難されてもかまわない。
非難を浴びる以上に大切なことがこの世の中にはあるから。
今ほとんどの母親達に必要なものは「批判」、「非難」ではなく「励まし」だ。
小さな子供を持つ母親達の叫びを聞いていて、もうあなたは正しい道を選んでいる、
と私はいつも言いたい。もう答えは出ている、迷いもまた答えの一部で、間違ってはいない、と、
親であることをおそれるな、逃げない、悩むあなたは立派な親だ、もっと自信を持とう!と
自分自身に対しても繰り返している。
具体的に言えば、1人で遊ぶのが好きなのは今現在の「個性」の一部だと私は思う。
上の子が幼稚園児だった頃、誰とでも遊ぶ子供だったけれど、今は1人でいるのを好んでいる。
下の子は「1人で遊んでばかりいる」と先生に心配されたけど、
現在はどこからどこまでが交友範囲なのかわからないくらい誰とでも遊ぶ。
子供の一時期のとある行動は「育て方」と言うよりむしろ、持って生まれた「何か」、かもしれない。
そうせずにはいられない「本能」かもしれない。
それを見守ることが正しいかどうか、迷う親の心がもっとも正しい、と私は感じる。
一見冷静な意見にひるむことはない、あなたがそれは違う、と思うことがもっとも正しい。
何もしないでもいい、と思うのならそうしていい、また何かしよう、と思えば何かしてもいい。
決してそれは間違っていない。迷いながら選び取ることは、ほとんどが、正しい。
「一見正論」と、真実、「正しい」とは全然別物だ。
そういいわけがましく、自分にもつぶやく。
私もずっと、悩み続けている、不安なんかいらない、とうそぶきながらも。