「ネットで書く」、ということ。

私はネットで書くことは自分の主観をどこまでもとぎすますことだと思ってる。
現実世界ではなかなか思ったことや感情を露わに示すことが許されない、
特に怒りの感情はこれは間違いなく自分を大きく損ねることになる。
どれほど理不尽な仕打ちだと思ったとしても私はこらえることすらせずに切り替えをはかる、
相手に何を考えているか、感じているか知らせるほど親切な人間ではないので。
トラブルの多い人間だとわかれば放置する、
相手が救いようのないミスを犯し、他人が一斉に飛びかかる瞬間でさえ私は無視している、
「こんなことがあったの」「こんなことされたの」をささやくこともしない、ただ黙殺する。
嫌いだ、嫌だという感情は持てば必ず相手に伝わる、
どれほど隠したつもりでも、間違いなくそれはわかるものだ、
結局嫌だと思う相手はこちらのことも嫌だと思っているのだから。
だから私はある時期から「嫌だ」と思う感情を捨てることにした、押し殺すのではない、手放すのだ、
腹を立てなければたいていのトラブルは避けられる、いらだつことは時間の無駄だ。
ただ、それをし始めると不思議なことに「好き」という感情も鈍くなってきた、
他人の無償の好意もどこかで醒めてみている自分を知ったとき、好悪の感情は一対であって、
どちらかが鈍るともう一方も鈍くなる、プラスの感情だけで人間は構成されていないと、
少なくとも私はそうだと気がついた。
怒りは若さの証明だと、最近お気に入りの方のところで読んだ。
確かにその通り、では、「怒りの感情を手放せないと思う私は
ひょっとして「若さ」にしがみつこうとしているんだろうか?
これはそうだとも言えるし、違うとも言える、
私はまだ好きだとか感謝だけで満ちあふれることが出来ない。
「怒り」から完全に身を引くほど私はおそらく年老いてはいない、
でも怒りのデメリットももう知っている。
だから匿名の世界で怒りをとぎすます、デフォルメされた私の怒りは大いに滑稽だろうが、
それも匿名世界の話だ、現実の私を損ねるものではない。
書くことは大いなるいいわけかもしれないと、けっしてそうだとはおもえない、
非常に有益な意見を惜しげもなく見せてくれる二つの日記で示されていたのを見て、
これほどのことを書く人でさえ、意見を表すことにためらいを見せるのだな、とその謙虚さに驚いた。
主観だけを頼りに見ているこのネット上で、紛れもなくこの二つの日記の書き手は信用に値すると感じる。
ただ私は私の信用が相手にとって有益だとは思わない、迷惑かもしれない可能性を考えている。
私の尺度は私の尺度であって、それ以上でもそれ以下でもない、
その尺度の表明はいいわけに過ぎないと思う。
でもやはり書く、私は私の感情を放出し、整理し、記録する。
主に感情は「怒り」だけだけれど。
主観をとぎすますことで理解の光が見える瞬間もある。私も勝手や見栄がいとおしい。
怒りは生きる証だと思うことが時々ある。