旅より帰る。(続きで終わり)

ネットで書いたものはやはりあくまで個人の「日記」だと私は思っている。
それを整理して消してしまおうが書き直そうがそれは書いた本人の「権利」、
読んだあかの他人がどうのこうと断罪するべきではない。
ブクマで他人の「日記」に否定的な意見を書く人がいるとすぐそれは群れになる。
他人の感情の正否を何故数で決定しようとするのか、私は不思議に思う。
私が自分の書くものは「日記」だと書いても「日記だと逃げる、かっこ笑い」的な
決め付け方をしようとする人間がいる。でも「日記、だと逃げる」と「ブクマコメントだから、かっこ笑い」と
どれほどの違いがあるのか?私にはわからん。
ネット上でも現実世界と同じく腹を立てた方が負け、かもしれない。でも私は別に「勝つ」のが目的ではない、
今の自分が思ったことを自分の「日記」に書きたいだけだ。
ネット上の人間達が全員私の書くものが「日記ではない」と書いたとしても私は一人で「日記だ」と書き続ける。
私は数を募りたいわけではない。そして自分の感情を多数決で決められたいわけでもなければ、
「ノイズが多い」なんて添削されたいわけでもない。
人の「日記」を勝手に読んで「雑音が」だのどうのとえらそーな人間は
どれほどの「名文」をおつづりになられるのかと、読んでみたことがあるが、実際は「、、、」だった。
「日記」に雑音が多いのは当然のことだ。読みにくいのも読ませようと思ってないからだ。
そんなこと、「自動添削機能」クン達はその文章を添削する「能力」でおわかりにならないだろうか?
その添削機能はどこか壊れてるんじゃなかろうか。なんで壊れた添削機能に添削されんといかんのじゃ、
しかも車の幅よせがどうのこうのなんて、あんた、ナニ書いとるんじゃ、
幅よせはあぶないからしちゃいかんのじゃないのか?
もっとも不快だからもう読まないらしいんで、大いに喜ばしい、壊れた添削クンに私は添削されたくないし。
さて添削機能クンが嫌いな「雑音」はこのくらいにしよう。
今、ネット上で問題になっていることは他人の「尺度」をどこまで斟酌するべきか、ではないだろうか。
個人の日記にせよ、コメント欄にせよ、ブクマコメントにせよ、そこで書かれるものが
どれくらい他人の「尺度」をはかれているか、が問題になっていると私は思う。
「日記だと逃げる」「書いたものを消す」「くだらないブクマコメントを書くな」
それぞれの「尺度」「価値観」がぶつかりあう。このぶつかりあいにすっかり疲れてしまう人もいる。
そういう人の書くものは素晴らしかったりして、読んでいた人はやめてしまわれることを残念に思う。
しかし、とめることは出来ない、少なくともハテナは「日記」、なのだから。
「日記」を個人が公開するのをやめてしまうのも当然の「権利」である。
こうした「権利」や個人の「尺度」や「価値観」や、全てが渾沌としているのが
ネットの良さであり、悪さであると私は思っている。その混沌の何がいいのか悪いのか、
一見、数を集めたかたちで決めてしまうのを私は拒否する。私のこの「日記」で。
私は自分はブクマコメントはしないがする人をとめる気はない。たとえ私の書いたものに
私の気に入らないコメントが山のようについたところで
まれに私をかばう、私を慰めるコメントがぽっつり残されることもあるからだ。
どれほど多くの人に否定されても私はたった一つそれがあったらものすごく嬉しくなる。
多くのクズコメントの不快感を圧倒し、私は思いがけない幸せをその言葉から感じ取る。
こっそりとやさしく私を諌めなだめることをエントリで書く人もいる。
ネットの泥沼の中でその言葉はキラキラと輝く。
それが全くなくても私は案外楽しくネットでやっていけるのだがその奇跡のような言葉にまれに巡り合えるからから
私は自分の「日記」を「公開」しているのだと思う。
そして自分の書くもので同じような感触を持つ人がいるといいと私は私の「日記」を書く。
わかってもらえなくてもいいんだが、そういうことだ。
それにしても宮崎あおいちゃんが結婚するとはなあ、
初めて聞いた時、相手はてっきりアフラックのアヒルだと思った。
今の私はそっちのことに興味がむいている。だから明日からはそれを書く。
やはり私の「日記」だし。