作らない権利を推奨してみる。

前々から思ってるんだが、世の中「する」権利ばかりが正しいとされている気がする。
子供でもなんでも「作る」権利のほうが「正しい」ってのはなあ、、、
「作らない」権利をもっとみとめるべきじゃないのかな、どんなものでも。
例えば私は外で働いてないんで金を稼いでない、金を「作らない」専業主婦で、だから一時期(今もか?)
えらく叩かれたし、でも私が外で働かないのはそれなりに色々事情ってもんがあるんで、
少なくとも「しない権利」くらいは認めて欲しいもんだ。
子供に関しても、料理に関しても「作る」ことがものすごく「正しい」ことみたいな、それって、違うだろう、
と、少なくとも子供を作る、料理を作るがそこそこ好きな私でも声を大にして言いたい。
まず料理を作ることが「家庭的」とは絶対限らなくて、料理ってどこか科学実験的な面白さがある。
また以前読ませてもらったところで納豆をパックごと食べるのどうのと、書いている人はそのことを悪いと
認識してるように思えたが私はネバネバしたものが他の食器につくのはいや、
見た目なんてどうでもいい、の感じ方は結構真っ当だと思った。
納豆を別の容器に移してってのはそのままの容器だと混ぜにくい、の機能的な問題だし、
その食器を洗う時いつまでもノメノメがくっついてスポンジに残って困る、
だから容器ごと食う人がいてもいいと思う。
食べる時の彩りとかも、このあいだ作ってみた牛蒡のポタージュスープなんて
まるで粘土色だったんで、作ってて笑えた、こんなもんを食わせるのか。(味は、まあ、牛蒡、って感じ)
映画か小説だかでなにかをし始めて煮詰まると(だったか?)猛然と料理を作りはじめる人が出てきて、
これはよくわかる、と思った。(あ、映画「ミュンヘン」だ!)精神か脳かに疾患のある人の療法の一つに
なにかを作らせること(作業療法だっけ)があって、料理をするのはこれに近い感覚だよな。
またその周辺にある、テーブルを整えることも。だから必ずしも料理を「作ること」が健全な感覚とは思えなくて、
「作らない」もある種、正しいありかたなんじゃないかな。
で、子供のことも「作りたくない」は市民権をもっとえていい考え方だし、それを子供を持っている側が
言ってもいいんじゃないか。他にも不妊治療を「しない」権利、とかも。
できたらもうひとつ認めて欲しいのが「保留する」権利、「今は作らない」ってやつ、
「いつかは作る、かもしれない」、これもあんまり今は認められてるとは思えない。
ええやん、決められなくっても。あとで困るのは子供を作ることだけで、欲しくなった時は産めなくなってました、
もあり得るんだけど、若い時に卵子をとって凍結するやり方もあるから、将来的には問題がなくなるかも。
「する」「しない」「保留」の権利は等分に認められるべきじゃないか。
なにかがいつでも正しくて、なにかがいつも間違い、はもう考え方として古い。(古い、が悪いでもないんだが)
ふと「赤ちゃんポスト」と妙な名前つけられた「こうのとりの揺りかご」も子供を作る、作らない、保留、の権利の、
なかなか理想的な対処法じゃないかと思った。
私は親が子供に与えられるものはその命だけ、と思うので「こうのとりの揺りかご」に賛成だ。
子供には親から離れる権利ももっているはずだ。親のありかたをがたがた言うより
生まれてきた子供のことだけをどうして政府は考えられないんだろうなあ、結局「少子化対策」って数なんだよな、
生まれてきて「数」になってしまえばあとはどうでもいい、責任は国民がとれ、って
あーあ、まるで女を腹ませといて知らんぷりする男みたいだよ、これが「美しい国」の人たちだもん、
やっぱり「作らない」権利、もっと頑張れ。