雑談。

「ネタ柳沢」が、また香ばしい意見を。て言うか、この方の時給計算をするといくらくらいなのかなあ、
アホなこと言ってそれに釈明する時間もまた、お金が出るんだっけ?まあ、なに言っても「ネタ」だもの、
「寛容」に許してあげるべきでは?私は許す気なんかありませんが。
負けじと伊吹文科相も楽しげなお言葉を。「大和民族が日本を統治してきた」のどうのこうの、と、
ふーん、そうだっけ、「大和民族」の定義ってなんだっけ。つか、「大和民族」が日本の国を統治してきたから、何?
それが私らと何か関係してんの?下らない「教育再生会議」と小競り合いしながら実は「なあなあ」で、
適当な「イジリ」を教育現場に持ち込むつもりのくせに。キャリアを公立校に「派遣」って、
その「公立校」は「大学附属」かしら?だってあそこも「公立」だもの、もっとも、底辺地区の底辺中学に
キャリアなんか受け入れたくないわ、文科省にもどったとたん、「バトルロワイヤル」政策を実施するかもしれん。
「こんな連中、さっさと殺した方がいいんだ!」なんてね。こちらの首を絞めることになる。
もっともじわじわ自分を首を絞めるようなことをしてる連中が沢山こっちにはいるんですけど。
今年、子供達はそれぞれ中学と小学校の最終学年になる。色々「学級崩壊」らしきものも見てきて、
見ているうちに「崩壊」って言葉は正しいのか、って気がしてきた。「崩壊」ではなく「過渡期」ではないのか、と。
年始の朝日新聞に「国家よ」のタイトルで「教育と社会を考える」と、
文藝評論家、斎藤美奈子、小学校教員、岡崎勝、京大教授、佐伯啓思の対談があった。
そこでもっとも印象に残ったのが現小学校教諭の岡崎さんの
「ぼくは権威を失ったアナーキーな今の学校が面白い」だった。
医療ネタでは時々叩かずにはいられない朝日新聞だが教育問題についてはなかなか面白い取り組みをしていると思う。
(スカもあるが)一見無茶苦茶に見える学校現場で、ふと、私は、これって違うんじゃないか、と思うことがある。
「ダメ教師」のレッテルを張り付けた先生の首を締め上げても、結局その首は自分の子供の首なんじゃないか。
私が知る限り、担任が学期途中に担任を交代することは一度もなかった。だから締め上げるのなんか逆効果。
ただでさえ少々難のある先生が保護者達に監視されて、まともなことができるわけがない。
毎日顔をあわせる子供達は少しは先生と言うものに親しみを持つ、そのかけらを拾い集めながら、
人間関係は出来上がるものだと思うんだが、後ろに恐ろしい保護者の影を見てしまった先生は、
そのかけらを拾うことは出来ない。
様々な要因があっていわゆる「学級崩壊」はおこったけれど、それは「必然」でもあった、と感じることがある。
その「アナーキー」な世界でわりにのびのびと育つ子もいるんだよ、自然にリーダーシップをとる子も。
「見守る」ってことが大切じゃないか、子供に対しても、先生に対しても。
私は「教育崩壊世代」ときっと数年後にはよばれるだろう子供達を持っていて、でもその子供達に期待している、
そこをくぐり抜けてきた子供達は決して一般の社会が考えるほど悪くはない。
その「過渡」を生きてきた子供達がまた何か新しいものを産むような、そういう予感が私にはある。
もちろん新しいものがよいもの、正しいものとは限らないんだが。
教育再生会議や、文科省がへたに混ぜ返さなければいいんだけどな。と言っても、そういうことをさせる声を
作ってきた責任が私にもある。その責任を償うためにも思うことを少しづつ書いてみようか。
ところで「赤ちゃんポスト認定」はいいことだと思う。親が子供に与えられるものは命だけ、と思うので。
いいかげんに育てられてなぶり殺しのように虐待で命を落とすよりは、ようこそ、世界へ、と
こうのとりポストで受け入れられる方がいい。安倍ッチはそれがわかってないんだよなー、あの人はへたにセンチだ。
子供をもつってことに夢があるんだろう、それはそれで大事なことなんだけど。