つぶやき。

内田春菊が子供を産む事について、炊飯器の使ってない機能を使ってみたくなった、みたいな例え方をしたと読んで、
その言い方をまねすれば「性」も人間についたオプション機能じゃないかと思う。
それを使うも使わないも本人の勝手、もうそれが人類のお約束、になっているのかと
最近のジェンダーフリーバッシングとか「フェミニズムの役目は終わった」とかを聞いて思ってたんだけど、
ネットで若い女性のため息のような日記を読ませて頂く限り、まだまだ全然女性は楽に生きられてない。
「他人からの視線が気になる」と言うそのささやかな(?)悩みは私が若い頃からちっとも変わってないし、
むしろ「ジェンダー」とか「フェミニズム」とかがそういう普遍的な悩みを圧迫してしまっているようにも見える。
私自身は女性だけのフェミニズムとは無縁の世界に生きているから、わざわざ「女の立場」を語る必要がない。
それでもフェミニズムに興味を覚えるのはいずれ社会に出るはずの子供達が二人とも女でやはりできれば
よりよい社会であって欲しいからせめて「性」が枷にならない世の中ならいいと願うものの、
頼りになるはずのフェミニズムジェンダー論も無力なようだ。なんでこんな事になったんだろうなあ、
それほど間違った考え方でもないように思うんだけど。ただ、それを必要とするはずの女性からも
見放されている感があるのは、やはり期待が大き過ぎて期待に応えきれなかった事、それから女性にありがちな
隅々にまで気を配り過ぎ、なところがあるかもしれない。
私は上野千鶴子さんが好きで今上野さんが好きだと言う事はもう自分が馬鹿であると広言するも同然なんだろうが、
この人のしている事、言っている事はそれほどブレがない。最新のジェンダー論と噛み合わないのは
一番いまだに現状認識がたしかであると傍観者である私は見ている。対話する事でつかれて
いいかげんな決着をみるよりは対話をしない、そういう選択をする上野さんはえらい。
誤解されたり嫌悪されたりする事も受け入れている。私は時々マイノリティー、或いは「自称」弱者男性を
懲りずに相手するジェンダー論者の対話を読ませてもらって大抵は相手にひきずられて立つ位置が
ずれていくのにがっかりする。どこかで何かをきる事が出来ない優しさを私は好感を持ってみているけれど、
それじゃあよけいごく普通の女性の悩みは救えない。やっぱり女の子は他人の視線を男性より強く意識しながら、
でもそのことにすら罪悪感を覚えながら生きている。(男だってそうだ!って言われかねない世の中だもんね)
なんだかなあ、それで「フェミニズムの役割はもう終わった」と言われてもなあ、、、というか
フェミニズムでさえ女性を救えない」と言った方が正しいような、ああ、中村うさぎさんが言うように
「女」と言うのは「病」なのかしらね。オプション機能で振り回されるのって哀しい。
それならはじめからなかった方が、、と思う人がいても不思議ではないなあ、
私は正直に言えばフェミニズムを必要とせずに生きてきた野蛮人なので、自分はそれでいいのだけれど
ふと、思春期を迎えた私とは違う人格をもつ、やや内気で真面目な娘をみていると気の毒になる。
フェミニズムにさえ頼れない世界に出ていくんだよなあ、、それでいながら昔と同じ悩みを抱え込む、
女の子は大変だ。