内田樹「知に働けば蔵が建つ」を読んだ。(その2)

さて「勝者の非常、弱者の瀰漫」、内田先生は「瀰漫」などという通常の人間ではとても読めないおことばを使われて
やや意地悪な気がしないでもないがこの小泉劇場型政治手法の「郵政選挙」の「総括」では、
大変効果的なことばではある。今、当時の「悪玉」、「郵政民営化反対派」が復党しはじめていて
やれやれ、たしかに「劇場」だ、別の劇の上演が決まれば退場させられた役者達が再び別の役割を与えられて
「舞台」に出る、エキストラはもう必要がないのだから御退場願おう、と「死客」の役をになった連中は
わきにおしやられる、「使い捨て」と小泉元首相はおっしゃったらしく、誠に正直な人だ。
内田先生は『弱者は醜い』『敗者には何もやるな』『小泉首相有権者が無言のうちに告げたメッセージをおくった』
と書いて、『「勝者の非常」に有権者達は魅了された』と説く。『「負け犬を叩く」という嗜虐的な傾向』
『「弱者は醜い」という「勝者の美意識」に大都市圏の「弱者」たちが魅了されたという倒錯のうちに
私はこの時代の特異な病像を見る』、
自分が「弱者」である事を認めたくないがために同じようなより弱いものを叩きたがる、と私は思っていたが、
「弱者の瀰漫」によって語られたらより根深い「人間の病」なのがわかるなあ、
もう「弱肉強食」の時代である事を私達は「選んだ」と言う事なのか?
それでいて自分が負ける心構えはあるんだろうか、と私はいつでも「改憲派」とか、勇ましく
核兵器を日本にも」と言う人間達のところを読む。
私の興味はその政治意見ではなく、その意見に至った心理で、どのような生活をしている人が
そういう事を言いたがるのか知りたい。傾向として「自分がいかに幸せであるか」を強調しているところが目立つ。
どうやらそういう人たちにとっては自分の「幸せ」も他人を叩くための「武器」でしかないようだ。
(「幸せ」の使い方としてはやや情けない気がしないでもないけれど)「普通」である事とか、
自分が「幸せ」である事とか、決して自分が「弱者」ではないとのアピールをなんと評したらいいのか、
私はいつでも戸惑ってしまう。
内田先生は『こうるさく権利請求をする「負け組」どもを、非難の声も意義申し立てのクレームも
告げられないほど徹底した「ボロ負け組」に叩き込む事に国民の大多数が同意したのである』
『日本人は鏡に映る自分の顔にむけてつばをはきかけた』
『自己否定の契機をまったく含まないままに「自分とそっくりの隣人」を否定して溜飲を下げるというこの倒錯を
私は「特異な病像」と呼んだのである。』と書かれる。
私はふと「判官贔屓」なんてことばはもう死語なのか、と思った。或いは「負けの美学」とか。
鶴見駿輔さんは「負ける側にいたいと思った」と言った。負ける側が「わかる」とは恐ろしい孤独だ。
それでも「負ける側にいる」とは、どう負けていったかを多分未来に残す必要がある、と考えるからじゃないか。
どのように負けて、どうしてそうなったのか、よりよく未来を築くための一歩となるため
負ける側に立ち、その主張を残す。
小泉首相を支持した層は「負ける」=「弱者」とは限らなくなってきた世界が
「わかりにくい」と考えているのだろうか。
私は「勝つ」側に立つ、なんてことに価値を見出せない、「勝つ」って事はずっと
「勝ち続けなければいけない」って事で「勝った」後はもう「負け」しかなく、でも決して
「負けられない」のが「勝つ」と言うしんどさだと思うんだけれど。
うーん、うまくまとまらないな、内田先生の「ためらいの倫理学」も読んでみよう。
「勝ち」「負け」の奇妙な概念が国のありかたを揺るがしているんじゃないのかな。
ああ、「勝ち」「負け」概念をわかりやすくあらわせない、だから私はブクマで文句を書かれる、、