ふと、向井さんのことについて。

出産といえばずっと私は向井亜紀さんのしている行動を理解できないでいる。
バッシングをするつもりは(珍しく)ないし、もちろん真正面から戸籍を取得する権利の主張は立派なことだ。
でもその戸籍は、向井さん自身のものではない、別の個性を持つお子さん達のものだ。私はそこに違和感を感じる。
昨日の朝日新聞にさる病院で宗教上の理由から手術を拒んだ両親に変わって親権を医師が一時預かり
子供の手術をした例が書かれていた。子供の手術を受ける権利をその実の親が阻もうとした事件である。
宗教の自由から受けるのが当たり前に見なされる手術を拒否しようとした両親と同じ感覚を
私は向井さんの戸籍取得のやり方に覚える。手術拒否にしろ、国籍訴訟にしろ、子供はそれを望むだろうか。
もちろん、まだ子供にその意志はない。だから親がその権利を「代行」していることになるのだが
まだ選んでもいない宗教の枷により危うかった子供の命と、代理出産で生まれた子供のプライバシー保護と、
私は同じように見えてしまって困る。母親である向井さんは、代理出産で子供を得たことへの恩返しか
償いのつもりで、こういった行動に出ているのだと思うが、肝心の子供にとって、その選択は
有り難いものになるのだろうか、そんな疑問がいつでも私の中にある。これは何ごとにも限らず、
子供を持つ親なら必ず出会う「迷い」だ。「教育方針」とはいつでもどこででも「独善」に変わりうる。
本当に幼い子供のためにこれでよかったのかどうか、親なら迷わずにはいられない。
苦心惨憺した選択であっても成果に結びつかなければ子供のためだったとはいえないのだ。
子供を持つ行為の最も難しい点はそこにあると私はいつも思う。向井さんの件で言えば
有名な両親を持った上に代理出産による子供である事実、それを親が隠さなかった事実、
それが子供に重くのしかかることはないだろうか。子供は親とは別の考え方を必ずする。
また、それをしてくれてこそ、私は子育ては成功しているのだという気がしている。
もっと、そっとして欲しかった、と恨まれることはないだろうか。私はいつでもいつか子供達に
「あの時ああして欲しかった」と泣かれるのに怯えてもいる。正々堂々とあなた達を手に入れた、
と言う向井さんの主張の中にほんの微量の傲慢が含まれているような気がしてしまうのは
向井さんの行為の迷いのなさを私が羨んでるからなのだろう。一面から見れば正論であることは間違いない。
でももう少し、ひっそりとやる手段はなかっただろうか、と思わずにはいられない、子供達「だけ」のために。
といって、わたしは向井さんの訴えが敗訴することは全く望んでいない。ここまでくれば最高裁までいってでも
きちんと話し合うべきだと思っている。また、子供のためにできるだけ早く戸籍の取得を願いたい。
養子であるか実子であるか、その記載のこだわりよりも大事なものが生まれてきた子供の「権利」だ。
向井さんのしたことが正しいか否か、それは周りがきめることではない。
向井さん御夫婦とその子供達がきめることだ。向井さんのやり方に大きくなった子供がいつか反発しても
それまでに親子関係がきちんと築けていれば、また、両親のやり方に深く感謝するようになるだろう。
私は例えば間違った選択の中からでも正しい答えはひきだせると考えている。
そうあって欲しいと願ってもいる。
向井さんの行為に理解は出来ないまでもこの先、子供を持つ親として注目していこうと思う。