とある「コメント欄」の意見から。

開業されている小児科医の先生のブログを最近よく読ませてもらっている。
奈良の妊婦さんの死亡事件について大変良心的な考察を展開されていてコメント欄もドクターが多く
充実していらっしゃる、皆様忙しい合間をぬって気分転換に色々考えをまとめられているようだ。
そのコメント欄に一般の妊婦を名乗る人が書き込んでいてちょっと考えさせられた。
その御意見によると出産が命がけ、なんてことをどこの本でも読んだことはないし、
聞いたことがないのだそうだ。私が妊婦だった時とは時代がもう10年以上違うから
「妊娠から出産まで」みたいな本はネガティブなことはかかなくなってるのか?
「素敵なマタニティーライフ」とか、そう言うポジティブなことしか書いてないんだろうか。
例えば「死産」の可能性とか「障害児」がうまれる確率とか、そう言うものもなかったんだろうか、
それでは全く妊婦さんのためになってない。出産がどれほど大変なものか覚悟をさせるためにも
ネガティブな情報も絶対に必要だ。とは言うものの、書いてあっても読んでない、目にはいらなかった、
と言うことは大いにあり得る。コメント欄に書かれた方がそうだと言うわけではなく、私だって、
必要だと思われる記事しか雑誌などでは読まないことが多い。わざわざ「死産」だの「子癇」などの
可能性の高さを読んでおく必要があると考える妊婦は少ないだろう。「出産は命がけ」であることを
私は身内に一人目を死産した人がいたし友達のお母さんもその経験があったので「死」の可能性を意識した。
どれほど順調な妊婦であっても「絶対安心」なんてことはない、とこれは私の主治医になった先生も
よく言ってくれた。まだ若かった私は命が何ごともなく生まれて来ることは「僥倖」に近いのだと思い込んだものだ。
でも何ごとに限らず「絶対大丈夫」なんてことはありえない、と年を食った今ではよく理解できる。
私は多くの哀しい出産例を見てきた先生方が妊婦さん達にひょっとしてネガティブなことが
言えなくなってるんじゃないかと思ったりする。「ドクハラ」の言葉を色んなところで見かけて
「こんなこと言う先生がいるのか!」と驚く例もあったが「そんなことまで「ドクハラ」になるのかな?」
と疑問に思う例もあった。私自身ももちろん、人間はなかなか自分の気に入らない意見を
素直に受け入れることが出来ない。それが真実であろうとその「言い方」が気に入らないと
自分にとってためになる意見でも拒否してしまいがちだ。子供を授かって嬉しい気持ちいっぱいの
幸せな妊婦さんが「子供を産むのは色々リスクがありますよ」の言葉を受け入れられるかどうか、
「こんなに喜んでるのになんでそう言うこと言うんだろう、ひどい先生!」となってしまう可能性は大いにあり得る。
なんだか反対意見を受け止める力が全く弱くなってるんじゃないか、これは今の日本全体がそうじゃないか、
と思う。話は大きくとぶが「靖国参拝」に近隣諸国からの反発があることを冷静に受け止められず
内政干渉だ」などと言ってみたり、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」と出されると「日本軍を馬鹿にするのか!」
となったり、「反省」を「自虐」と呼んでみたり、いくらでも社会全体としてネガティブな意見に
向かい合えない体質の例を上げられるような気がする。嫌なものはみたくない、そんなこと考えたくない、
考えたくないことはなかったことだ、「私」が「嫌」だと思うことは「悪い」ものだと、
どちらの立場からもそれは必ずあると思う。
「出産は命がけ」の意識を全く持ってなかった方に話を戻せば後で書き込まれた数人の方の意見、
特に「知らないでいるより、知った今の方がいい」との意見を書かれた同じ妊婦さんの意見を
受け入れられることを願う。一つ命を産み出す行為とはそれほどの危険を経てなされる偉業だと
そう思ってもらいたい。危険の可能性を受け入れることで一つ親として、人間として成長ができると私は思う。
知らないで出産を終えるよりは知った上で出産を終える方がずっと素晴らしい経験だ。
そう考えて全ての妊婦さんが出産を迎えられることを心から祈る。