「選ばない」権利の保証が欲しい。

小倉千加子さんの「シュレーディンガーの猫」を読んだ時、
大昔に「三島由紀夫と皇太子(現天皇)と結婚するならどちら?」という女性誌のアンケートで
「どちらもいや」という答えが以外に多かったのに驚いた。そういう比喩が有効だった時代でも、
「どちらも選ばない」という選択肢を女性が認識してたのは興味深い。この「どちらもいや」の理由として
(1)どちらも嫌い(2)結婚したくない(3)そういうことを聞かれることがいや、
とおおまかにわけられるんじゃないか、(4、そんなの決められない、ってのもあるかな?)
私なら理由として(3)だなあ。なんでそんなもんを選ばないといかんのじゃ、
まずその質問に答えるかどうかを選ばせてくれ、と言いたい。そんな質問に答えたくない「権利」ってのが
いつも無視されているような気がして私は二者択一の問いが好きじゃない。
大体そんなもんえらっべかよっ!ってキレたくなるような問いも多いし。
でも世の中は、このテの問いであふれている。「右」か「左」か、「与党」か「野党」か、
「安倍」か「小沢」か。ああ、どっちもいや、って、なりませんかね。
ていうか、安倍と小沢なんてもう選ぶ権利なし、っていわれてるような気がする。二人共、同じじゃん、
なんか他ないの?ないのね、しみじみ選ぶ「本当」の権利が欲しい、、、
と、ちょっと前フリで脱線してますが、要はどちらも「選ばない権利」という第3の選択肢を示して欲しいな、
ということだ。例えば結婚も「する」「しない」の選択しかないように思われてるけど
「する」も「しない」も「選ばない権利」ってのもあっていいんじゃないか、
そういう「権利」が保証されていたらこのあいだのJR事故の犠牲者の同居人の自殺という悲劇も
なかったかもしれない。そういう「問い」に晒されなくて済む「権利」、これは無視されてる「権利」じゃないか。
子供を「持つ」「持たない」、それ以外に「どちらでも構わない」って人は結構いると思う。
不妊治療を「する」「しない」これも「どちらでもいい」、でも大体二者択一に追い詰められてしまう、
理由は大体他からの「圧力」。「周りに言われて」ってやつね、それで選ばされるのが大抵「する」って方、
「しない」を選ぶのは至難のわざと思う、一般人では。最近は「しない権利」もないがしろにされてる。
なんだかとても息苦しい。
国歌斉唱にしても「歌う権利」や「歌わない権利」がせめぎあっていて、
「そんなこと、選びたくない」って権利は全く出てこない。
でも私は「そんなこと選びたくない」って言いたい。そんなことはっきりと選ば「されたくない」。
「歌う」「歌わない」はそれぞれ「心の問題」、
でも「歌わない、何故歌わない、歌わないやつは義務違反だ、非国民だ」となってしまうから
「歌わない権利」を行使するのはよほどの勇気がなければ出来ない。
だから「どちらも選ばない権利」も必要だ、大抵の人間はその権利の方が有り難いんじゃないかな。
今、日本は世界でも珍しい「戦争をしない権利」を持っていて、実際は「建て前」に過ぎないんで、
それがいけない、戦争を「する」権利が「必要」だ、さあ、「する」か「しない」か、どっち!
と選択することを国民は迫られている。日本は本当は「する」「しない」、どっちでもない状態で
戦後ずっとやってきているので、その曖昧な、極めて日本的やり方を私はこれまでも続けていきたいと思ってる。
「する」か「しない」か、どちらかを選べ、と言われることを拒否したい、なんて思うのは間違ってるのかな。
もしどうしても選べ、って言われたら「しない」権利を選ぶけど、最近「しない」権利は全く部が悪い。
「する」権利ばかり叫んでどうするよ、って思うなあ、、あまりに「ポジティブ」過ぎて「日本的」ではないよ。
ところで「私にも選ぶ権利があります」と言う時、大体、なにかを強く「拒否」してる場合が多いよな、
「選ばない権利」が欲しい時、こういう言い方をする「日本語」、難しい、、