戦争の、話。(おしまい、その1)

戦争の記憶との関わりを書きはじめると思い出はつきない。最近でも上の子が初めて通った農業地区の
小学校のそばには戦死した卒業生達の慰霊碑がずらりと並んでいて、何年生かになると8月の登校日に
それらの墓の掃除に行くことになっていた。各学年、誰かが必ずその慰霊されている一人と遠いつながりがあるので
娘の場合も「○○君はすごいね」と言って大いにその子を得意がらせていた。そこの学校はかなり地域と
密着していて、例えば運動会は創立以来、学年に一クラスしかないので田んぼに水を流す地区ごとの対抗だったし、
給食もどこかの誰かの子供や孫がいつも学校に来ているので「寄付」で毎日美味しいお米を食べさせてもらっていた。
子供の親も大抵はそこの小学校出身者でその慰霊碑に子供達が挨拶して通学することに抵抗はない。
学校は戦争の善悪には触れることなくただ卒業生の中で若くして戦争で命を失った人がいることを教えてくれた。
私はそういう機会を与えてくれた僻地の学校にとても感謝している。
私の場合は中学校の体育の先生に軍隊上がりが多くいて、炎天下、ふらふらになるまで行進の練習をさせられている時
「おまえらっ、なっとらんぞ、戦争で亡くなった人はお前らみたいな奴のために死んでいったんじゃないっ」
なんて怒鳴られて、そんな言葉は今真面目に運動会の練習に出てる私らより便所の裏で煙草ふかしてる不良の連中に
言って来いよ、としみじみ思ってたわけで、それでもまあ、この訓練も戦争よりはましか、と考えて
「右へーならえっ!」「左向けー、休めっ」につきあっていた。今思うとあの軍事教練に似た体育の授業も
先生達にとってはそれしか若い時分に教えてもらってなかったのだし、子供時代、ずっと「戦争に日本は必ず勝つ」
とか「天皇陛下は神様だ」と教えられたのに突然戦争には負けるわ、天皇陛下人間宣言をしてしまうわ、
本当に気の毒な世代だったと思う。ひょっとしてうちの学校にその手の先生が多かったのはやはり「日教組」が強くて
皆が行くのを嫌う最底辺地区の学校にとばされてたのかな、とふと昨日思いついた。
でも昔式の軍隊演習を施したところでうちの中学校はさっぱりよくならなかったんで、この先、
教育勅語を公布したとしても悪いやつは悪いまんまだと私ははっきり言うことができる。
私は教育と戦争は強いつながりを持っていると思っている。先日の硫黄島からの生還者達の証言を聞いて、
あの絶望的な状況の中、どんなに米兵が呼び掛けても投降に応じることが出来なかった、生き延びる、と言う
手段や選択を全く与えられていなかった日本兵達を見てもそう思った。応じようとしても上官らしき人に
撃たれると言う悲劇もあったことも初めて知った。証言する元米兵は今はそんな日本兵達を憐れみ、
そういう教育を施した、かつての日本の指導者達に憤りを見せているかのようだったが、当時は
無気味な抵抗とも言えない動きを見せる日本兵が恐ろしくてならなかっただろう。だから米軍は
原爆と言う最終手段を使ったのだ。あれほど硫黄島で悲惨な戦いを見せていなかったら、米軍は
原爆を落とすまでもなかったのかもしれない、もちろん、はじめから核の実験地に日本を選んでいた、
という説も信憑性がある。でも見方を変えれば死ぬまで戦えと言う教育が自国のとどめをさしてしまったと
言えると私は思う。A級戦犯はそういう道に日本人を導いたと言う点であきらかに「有罪」だ。
百人斬りをしたと言う兵士も、若い兵士の投降を許せなかった上官も、皆、かつての教育の犠牲者達だ。
自分達に都合のいい振る舞いしか日本人に許さなかったのはどう考えてもかつての指導者達だ。
そしてそういう指導者達の跳梁を許してしまったやはり同じくかつての日本人達なのだ。
これを書くと「自虐」と言う人は言うだろう、でもそれは「自虐」ではない、
自分自身を振り返りながら認める「事実」だ。
長くなったので明日に続ける。明日は丁度「敗戦記念日」だ。皆様、お待ちかねのナルシー小泉首相
パフォーマンス最終仕上げ日だ。行こうが行くまいが私は何の感慨ももうない。ただ、以前
「明日は竹島の日です」なんて言葉を無数にブログで見かけたようにそれをたたえるブログが山のようにあるだろう。
でも今日「明日は敗戦記念日です」と書く人間がどれくらいいるだろう、だから私はもう1度、あえて書いておく。
「明日は、敗戦記念日です」