「貧乏」、の「意味」。

自分が凄まじい貧乏を経験したわけではないのにそれは違うなんて傲慢ぶりをおわびします。
ただ、この豊かなはずの日本にはまだ後発のアジアの国とほとんどかわりのない貧しさが存在すると
言いたかったのです。昨日、ニュースステーションで「中国インシュリン妻」の故郷を映していました。
そこを「なんと貧しい」とコメントしてましたが、あの荒涼とした風景は日本のへき地に今でもいくらでも
あります。都会の人間が知らないだけです。いや、田舎は都会の人間のノスタルジアに満ちた「素朴」だの
「豊か」だのばかりがあるわけではないのを本当は知ってるはずです。だから「自助努力」とか
「自己責任」とか言う「魔法の呪文」が発明されるのです。これさえ言えば何もかもチャラですし。
でもそういいたくなる気持ちが田舎の貧乏を見るとほんの少し理解も出来ます。
生活保護関係のお仕事をされている方は本当に命をすり減らすようにして仕事をします。
ひどい「貧乏」にもう人格はありません。怪我をした薄汚いけだもののようです。
どうしたら幸せになれるか全くわからず、考えず、生きている意味をただ「憎悪」であらわすのです。
その陰湿さを私は恐れますし、また、怒りも感じます。でももし同じく「死」が間近にあるような
「貧乏」の中に生まれたら自分だってそういう人間になったのではないか、とも思います。
確かな事は知りませんが都会のホームレスはとりあえず飢える事はないそうですが
こんなところ誰が住むの、のへき地にはまだ「野垂れ死に」があります。
毎年恒例のように「ここ」で死ぬ人、というのがいます。まるで象の墓場のようにある季節が巡ると
そこで死んだ人が見つかるのです。自然の摂理のように、です。いつ自分の死の順番が巡るか
わからないところで、「幸せ」とか「満足」とか見つけようとするのは無理です。
田舎の貧乏は都会の貧乏とは全く質が違うといわざるを得ないのです。
自分が憎むようにまわりも自分を憎みます。その息のつまるような狭い人間関係の中でそれはあまりにも
哀れだと、同じくある地区の人にとっては「ヨソモノ」である転勤族の私はかすかに思うのですが、
実際は、その種の「貧乏」な人たちとわかりあえる事はありません。
何をしてもかえってくるのは猛烈な悪意のみです。ちょうど「嫌韓派」がやってる事と同じです。
だから私は連中が嫌いです。大体こんな貧しさがまだ取り残されてる見せかけだけ「豊か」な日本が
なんで他国を見下せるんでしょうか?また、その意味不明な、なんでそういう事になったか全く自省しない
無知な振る舞いが全くあの絶望的な「貧乏」な状態の人のする事によく似てます。
情けないです。それを日本人の「誇り」みたいに思っている事が。
「学ぶ事」が唯一幸せを手に入れる最後のチャンスなのに「貧しさ」はそれすら滅茶苦茶にしています。
そうして疲弊していった日本の公立教育はこのまま放っておくと「文盲」をも生み出す事でしょう。
「貧乏」の定義は難しいです。「物質」「精神」両方がもつれあう「貧乏」を私はやはり本物の
「貧乏」に思っています。
心豊かな人は貧しくなるはずはない、とお気楽には言えません。でも幸せになる事はできると思います。
幸せになるには才能が必要です。賢くないと幸せにはなれないと思います。
幸せはそれほど甘いもんじゃありません。もちろん「物質」的なものも大事です。努力した人が
それを得られる世の中にするには「正しい事」や「間違った事」をもっとちゃんと「学ぶ」べきと、
その機会をもっと平等に与えられるべきと思います。
メディアでは「夢のない世界」がうるさく喧伝されますが私は「夢」はあえて「ある」と言います。
「ない」よりはましです。「ない」から他国を攻撃する事に心を向けるなんて事まっぴらです。
悪口でからかう事は出来てもなかなか自分の心情を伝えるのは出来ないですね。まあそんなところです。
私の愛するダーリンは「貧乏は人類の不治の病」と格好いい事言っております。
これって誰か他の人が言った言葉では?の疑い濃厚です。