「語るべきことは語れないこと」かもしれないが、やはり語ろうかと、

枝雀師匠の落語CDのライナーノートは結構よくて中でもどういうわけか一番心に沁みたのが桂三枝の文章だ。
三枝が枝雀師匠とどういう関係になるのかさっぱり知らないが同時期、同世代で同じくらいに人気があったのは
間違いない。その事を当時お互いどう思ってたかわからないものの書いてある文章には心からの哀しみがあった。
三枝はあんまり好きじゃないし上昇志向が強い癖にどこか卑屈な感じがあって今回上方落語の高座復活なんてのが
ポシャってへへん!なんて思ってたのが、明らかに枝雀師匠をライバルとして見なし、身を絞らんばかりに
嫉妬していたのもかかわらず、いや、していたからこそ、こんなにも枝雀師匠の死を悼む痛切な文章がかけたように
感じて、ちょっと悪かったと反省した。
卑屈といえば昨日の朝日新聞の「ポケットから」(ミュージシャン早川義夫さんの)にいい言葉があった。
「唯幻論物語」にある言葉らしく「卑屈なもののみが傲慢になるのである」と、ああ、なるほどな、そうか、
それで私は傲慢という言葉を憎むのかと思い当たった。私は卑屈が憎くてならない、
それは自分に卑屈な要素が多分にある事をよく知っているからでわたしの中の卑屈を克服した時、
他人が平気で「傲慢」という言葉を使うのを許せるようになるのではないかと思っている。
だから一番嫌いな言葉なんだよ、「傲慢」は。それを平気で使っていきがってるブログの中のバカもの、
いやワカモノを見るとこの「痰壷」野郎があっって思っちまうね、以前にあまりにも馬鹿たれがそんな言葉を
コメント欄に残していきやがったので腹立つより呆れた。その後私が見に行くブログのコメント欄でも
やはり死ぬほど馬鹿なのを晒してて気の毒になった。やっぱ他人のコメント欄、ショーもない事書いて汚すのは
あかんね、コメント欄書き込みは賛同の意を表すとか、こういう情報もありますよ、とかが平和でええんやない?
馬鹿もわからんですむし、ま、私もこんなとこで馬鹿晒してるってよくわかってンだけどね、
でもさすがに私は他人のとこまでいってやる事はないよ。「レトリック」なんて言葉よくその文章で書き込めたなあ、
それから人の「レトリック」盗むな、私のとこはへき地ブログだから書いてある事を盗んでもわからんと思ったか?
それにしても他人の言葉を別の他人を罵る道具に使う奇妙な人間がコメント欄を汚して喜んでんだな、とよくわかった。
だからコメント欄に腹立つ事書く輩は無視してよろしい。私のところに迷い込んできてこれを読んだ人には
教えておきましょう。私がいくつか証明できるのでね。実生活に何の支障も与える事のないブログで
少々嫌がらせされようがあと使えるネタになるんで美味しいといえば美味しいな。またやってみるか、暇になったら。
今は子供達の行事が満載でしかも自分自身がやってる事でもあれこれ忙しいのでそれが終わったら
嫌韓流」の感想文でも書くかな。でも今、あれを叩くのが流行りはじめてるみたいだからやめておくか。
叩くほどの値うちもないでしょうに、せいぜいブログのネタでしょ?そんなもんよ。
最近どうにも文章のオチがつかなくていかん。そういや江戸落語の「下げ」ってのが「オチ」だってやっとわかった。
私の落語の知識なんてそんなもん。