サイバラさんのおことば。

先日、読ませてもらったエントリで西原(理恵子)さんが
「才能なんてものはしょせん、収入ではかることができる程度のもの」と言ったらしいのを知って、
なるほど、「金を稼がないものは「才能」とはよびません」と言い換えられるかな?
「売れる」ものは「芸術」じゃない、的なご意見をネットでも時々読むことがあって、
例えば「ラッセン」なんて「芸術じゃない」と、それはとてもよくわかる、と思いつつ、
知り合いの元バリバリヤンキーが、結婚したばかりのお金がない時期に、ローンを組んで無理して買った「ラッセン」をとても自慢にしていて、
そのシンナー臭が漂ってきそうな「ラッセン」が、例え今はもう払った値段と同じで売れないにしても、彼女はその絵を「買った!」の
いつまでもその頃の充実感を大切にして、幸福感の「元」になってるんだとしたら、「ラッセン」は「芸術」の役割を担ってるんじゃないか、
「心を満たすもの」は「芸術」と認めてもいいかもしれない、と、思ったことがある、「ラッセン」は嫌いだけど。
西原さんの「才能」の話で面白いと思ったのは、自分に対する徹底して冷静なまなざしで、
この人は本当に「自己満足」に完結する人ではないんだね。
自称「げいじゅつか」のみっともなさとは、「売れないのは、世間に見る目がない」と、
一発、勝間和代さんに「カツ」を入れてもらえ!と言いたくなるような、根拠なく、自分に「ある」と信じている「才能」への甘えで、
その手の人は「他人」からのまなざしを、自分の中に全くもっていないのでうんざりさせられることがある。
「無」から「何か」を作り上げるのに、そういう部分は必要だろうが、「世間は私の才能がわからない!」で自分の「芸術」やめてしまうのでは、
結局、「あなたにとっての「芸術」とは、「とっても「特別なあたくし」を飾り立てるための「道具」だったの?」とがっかりさせられたりする。
私は「才能」は「それをせずには生きていけない」行為の果てにあるものだと信じていて、
やめようとしても、やめられない、だからその「才能」は本来「金」で計られるものではないはずだ、と、
でもそれが簡単にやめられるんだったら、それって「才能」以前の問題だよな、って
ならば、誰かを喜ばせる「道具」として「才能」はあっていいんじゃないか、
人を喜ばせるために、自分がなにを出来るか考えて、もし才能があるとしたら、それを人のために使うことが
最終的に「芸術」につながるんじゃないか、なんて、
結局、「才能」って本当はなんなんだろう、「世間は私の才能を認めなかった」とは、本当はどういうことなんだろう。
西原さんの話でもう一つ思いだしたが、「エロ」の世界からいろんな「才能」が出てきていることで、
西原さんはエロカット描きをしていたことをよく話しているし、「Shall we dannce?」の周防監督や、
「レッド」を描いている山本直樹など、私が今思いついただけではなく、様々な人がかつて「エロ」に関わってたりするようで、
それはもちろん、「金」の問題からだろうが、「金」を稼ぐためには、真剣に「他人」の「エロ」につきあわなければならない。
西原さんが、エロカット描きの仕事をしたとき、「要は○○○が立つかどうかなんだから」みたいなことを聞いて、「大変勉強になった」と
多くの「他人」の「快感」を、いかに刺激できるか、徹底して「自分」を廃し、「顔」のない無数の人間たちが「喜ぶ」ものを「作る」、
「エロ」は即物的で単純だからこそ難しく、そこで「才能」は試されるか、などと、
「エロ」が金を稼ぎやすいこととか、まあ、あれこれ、思いついたことはあるんだけど、整理できないまま、今回はこれにて終了。
とりあえず、素晴らしい「さいばら語録」として
「才能なんてものはしょせん、収入ではかることができる程度のもの」、を
「上等な私立を出たって、世間は上等な私立じゃないんだよ」のお言葉と同じく、大事に覚えておこう。