追記。

ダーリンがなんで「利休忌に名古屋帯」がおかしいのか書いておいたら、と言うので。
「利休忌」は格の高い茶事で、招かれた側は「礼装」が基本だ。(帯は「袋帯」が本式)
で、雨が降ってようが、気軽なおつきあいであろうが、略装である「名古屋帯」と書くのは
茶道の素養がどうも怪しい、が私の意見。着物一式は雨で濡れても出入りの呉服屋さんを呼んで始末させればいいんで、
他人に資産を誇るほどの方がその程度の出費をケチるなんて変だな、と。
まあ、この方の「快適はお金で買える」の御意見に私は別に反対しないんで、
でもなんで資産家にとって当たり前である「快適」な状態をいまだに有り難がっているらしいのか、不思議に思ったり。
豊かさのこわさはその豊かさに「慣れる」ことだ。金で手に入れた快適さを当たり前のものに思う。
人に誇るべきものかどうかさえわからなくなる、その点で言えば快適さをさほど必要としない若い世代に
自分のやっと得たらしい快適を誇るのはやや哀れに見える。
この方のハテナーへの質問を非常に面白く読んで、この方にとってはなにかが「ある」「持つ」が
「幸福」の「しるし」で、この考え方はまだまだ「戦後」のビンボ臭さを引きずる世代だな、と
自分も含めて反省させられる。家が何軒か「ある」、不労所得が「ある」、
細かく言えばキッチンが、風呂場が幾つか「ある」、何もかも「ある」「持っている」が「幸福」なわけで、
「ない」と自分は「不幸」だと告白している。
百円ショップで買った食器で食事していても品のいい人はやっぱり品がいいし、
この方はブランド食器で食事しないと品の保てない人間なんだろう。
ここまで自分の情けなさをひけらかせる人間と言うのもなかなか得難い。
ネットで対話したことで一皮むけたってことかな。
もう今の若い世代は「ある」「持っている」に価値を見出せなくなっているようにわたしは思っている。
なにかが「ある」からなんで「幸せ」?みたいな、「ある」ことが当たり前になっている人もいるし、
「なくても別にかまわない」人もいるし、その価値観の多様性が私には好ましい。
若い世代はあの「あるある」質問に対して「ない」ことを「不幸」と思わねばならないのか?
と驚いたんじゃないのかな、「なくても幸せ」がわからない「不幸」を初めて知った人もいるかもしれない。
私(今年で40です)より下世代はなにかが「ない幸せ」、「持たない幸せ」を学んできているように思えるので、
「ないと不幸」のこの考え方は卒業して人類の別段階へと進もうとしていると考えたい。
でもねえ、今、この40代以降の「ないと絶対不幸!」思考が憲法改正論議
果ては「軍備を持たない国家は永遠に不幸!」活動を引き起こしているようでなんだかねー。
人間は身軽に生きられる方がずっと素晴らしいんじゃないかな、限度もあるけど。
「ある」こと、「もつ」こと、その重みを感じながら私世代の人間は生きてるんで、
それを「なくすこと」への恐怖心をあらわにしてみせた哀しい人を私はそれほど嫌いではない。
吉本なんですよ、楽しませようとしてるんです、わたし共々笑ってやってください。
なんか「ある」とか「ない」とかの価値観と幸福、不幸について色々思いついたんで、また明日以降書いてみよう。
うどんこ病にがっかりきてるんですよ、しばらく庭いじりに専念したいです。