安倍新政権の「教育改革」?(その1)

安倍新政権がこの先何をするのか、とりあえず一部の人間の人気取りのように「教育改革」をあげているのが
どうもうさんくさい。子供のいない(少なくとも正妻には)安倍総理に教育をいじるな、
と言っているのではもちろんない。子供を持つべきではない人間が子供を持っている場合も
この御夫婦に子供がいたらどんなに幸せに育つだろうかと思う場合も両方知っているし、
私は子供のいない人に子供の心を教えられることがよくある。
親になった時点で都合よく自分の子供時代は忘れがちだ。また忘れなければいけないこともある。
(親と子供の立場はやはり対峙するものであると思うので)私一人で子供を育てているわけではもちろんないので、
私の人格がどうであろうと子供は至極真っ当に育ちつつあると思っている。ピアノや学校の先生とのかかわり、
剣道を通じて知り合う人たちとのかかわり、双方の祖父母とのかかわり、また私の知り合い、
友人とのかかわりの中で、子供は様々なものを吸収して育つ。
今は丁度お友達「命!」時期で親の言うことより友達にどう思われるかが重大事となっている。
これが私には腹立たしい点で、それを年若い知り合いにふと話すと
「私もそうでした、お嬢さんを責めないであげてください」なんて言われて、「そうか」と納得して、
とにかく子供がいなくても色んな世代が子供とかかわれるようになって欲しい思いは強くある。
ただ、安倍総理がどのような教育改革をするつもりなのかまだ具体案が出ているわけではないので
はっきりといえないがブレーンの面々を見る限りどうも一部の人間にだけ大きく迎合されるような匂いが
してならない。それが杞憂であるなら問題ないが、少なくとも私は山谷えり子のような女性議員は好みではない。
ネット上でとある議事録を読ませてもらったが無駄にだらだら個人的な事柄を話すばかりで
これがいわゆる「お母さん議員」などと思われるのはあまりにも情けない。
女性的な立場で、観点で、と言うのはわからないではないが、
子供を孕んでいる時からどうのこうの、とは「独善」の腐臭がぷんぷんと臭ってくる。
「お腹にいる時からこの子はこうだったから」とは母親が言いがちな台詞ではあるものの
私は同じ経産婦の立場から言って、それは「思い込み」或いは「決めつけ」ではないかと感じる。
よく、「この子はお腹にいる時から優しくてつわりの苦しい時は大人しくしてくれてたの」
(って、つわりが長かったのかもしれんが普通子供が動くのはつわりが終わりかける頃だよ)だの、
「お腹にいる時から音楽を聞くと踊ってたの」(気のせいだと思います)だの、どこから電波が出てるのか
よくわからない人がいるが、そういう人が話している相手に言いたいことは大抵
「私が産んだこの子は特別!」であったりする。聞かされている方は「へー、はー、ほー、ふーん」
で終わらさせて頂き、年少の知り合いなど「あれって本当なんですか?」なんて私に聞いてきたりするが
そりゃー、本人が本当だと信じてる限り本当だとしかいいようもない。
いわば「生命の神秘」って奴かもしれんが、私は母性とはそんな電波がかったものではないと思っている。
子供とのかかわりは別に腹の中にいる時から云々ではないものだ。
むしろ育てていく過程において形成されるのだと思う。(長くなりそうなんで続く)