小熊英二、「民主と愛国」を読み終えて。(その1)

まず思ったのは「思想」がなんと無力であったかと言うことだ。戦前、戦後を通して政治に何の力も持っていない。
時代を「言葉」にする、そのためだけのものではないのか、と思われてならない。
ただこの本の中で小熊さんの戦争に関わった全ての人物、思想家に注ぐまなざしは優しい。
検索により他の人の書評も読ませてもらったが私は小熊さんが取り上げたどの思想家にも公平に
同情心を示していると思う。「批判している!」との意見が多く上げられた「吉本隆明」に対してさえ平等である。
私などは吉本隆明よしもとばななの父親であるとしか知らないので格別、吉本隆明を悪く書いたという印象はない。
吉本隆明に思い入れのある人達にとってはあの程度の事実をも受け入れがたいものであるのかと
その点が私には意外だった。神格化されたような思想家だったのか?よしもとばななでさえ
実は1冊も読んだことのないのでなんともいえない。何か読んでみようとは思った。
それにしても戦争というもの、と言うか「敗戦」というものがいかに長期にわたって多くの人を
苦しめ続けていることか、そして同じ経験をしてもどれほどその受け取り方が違うことか、
今さらながら呆れてしまう。私は時々「戦争中、私はお菓子を食べていた」などという老婦人と話すことがある。
そういう方にとって戦争とは格別不自由なものではなく、またその幼少期の記憶が未だに
美しく自分を飾るものであると信じているのだ。たとえ戦争を経験したといっても日本にはまだまだ
戦争で何の苦労もなかった、むしろ自分を特権的に考える一つの「道具」としか考えられない人間が数多くいる。
それが今の下らない「戦争美化」装置になっているのだろう、私は戦争で誰も死ぬ人が知り合いに
いなかったことを昂然と語る人間に哀れみを感じずにはいられない。
なんと下らない価値観しか60年あまりもつちかってこられなかったのか、
日本人が今特別悪くなったなんて事はないと、私は確信している。こうした人間の子供達が、また孫が、
「今」を作ってきているのだ。恥を恥とも思わず、他人を理解することもない、それで「戦後」
決して幸せにはなれなかったいびつな人間が未だにはびこっているのが日本の現状だ。
加藤紘一氏の実家の全焼を笑ったという稲田朋美議員などはそうした人間の末裔なのだろう。
戦争の記憶は確かに一つではない。それでも小熊さんの本に書かれている戦後の思想家達の苦闘を
私は真面目に受け入れようと思う。吉本隆明でさえ私は責めるに値する人間とは思わない。
なんと哀れに「生」も求め続けてきたことか。小熊さんは繰り返し、世代によって戦争の受け取り方が違っていたと
書いている。出征年齢であったか、否か、敗戦時、何才であったか、それによって大きく戦争の影響は
かわっていったと示す。「皇国教育」を受けてきた世代がどれほど「死」を美化して教えられてきたか、
それ故に「生」を生きていくことにどれほど抵抗感を持ってきたか、
私などのように昭和40年代に生まれて生を楽しむことになんのためらいもない世代の理解を超えている。
その教育の呪縛から解き放たれるための「安保」であり「赤軍」であり「平和運動」であったと私は受け止める。
人間はやはり生きていきたいのだ、死ぬことは素晴らしいことでもなんでもない、それを自ら戦地に赴いて
確かめられた丸山真男などはまだ幸せな方であったとすら言える。現実に、真実に向き合えたことが
その後どれほど丸山達を苦しめたかわかっても、その経験は後世の人間にとって無駄ではなかったと思える。
もしそれがなかったら丸山は今の西部程度の「思想人」にしかなれなかっただろう。私は西部など
「戦争中、家にお菓子がありました」程度の事を誇る人間でしかないと見なしている。(つづく)