「フツー」の生活、、、

先日、久々に琥珀先生の「何ものにもなれず半世紀生きた人間は云々」を読んで

琥珀先生は半世紀生きていまだなお、満たされないものを抱えて生きることに

釈然としない思いをお持ちなのだな、恵まれた環境に育ったのだなと感心した。

自分と同じ幼年期を送った人間の中に功成り名を遂げた人がいなければ

その発想はないんじゃないか。

私などははてなの素敵な慶応閥が騒ぐのとはレベルの違う底辺育ちなので、

周辺で世間一般で「普通」とされる生活をしている人間の方が少なく、

「普通」から脱落していった人間を見ながら何とか生き延びてきているので、

人生が半分以上過ぎてこの先大きな失敗はなくて済むだろうことにホッとしている。

「何者かになれなかった自分」を責めることができるのは

それが「できたかもしれない」の環境と能力をお持ちだからではないかな。

世間一般では、就職して結婚して子供をもってその子供を何とか育て上げることを

「フツー」と称するようだが、人生の始めの時点でそれがかなり難しい人間のほうが

実は世の中には多い。そのことを知らずに育ってきて自分の家庭と自分の環境だけを

「フツー」と思っている半世紀生きた人間がいる奇跡に私などは涙する。

高校生時代の娘に、わたしが作った弁当を「フツーにおいしい」と言われ

その「フツー」が実は「かなり」と同義であることに驚かされた私だが、

考えてみれば「フツー」のハードルの高さを

無意識にその時代の子供は知っていたのではないか、

というよりは、私が子供に強いた環境がそうさせたかの反省がある。

特に東京に出た娘などは東京でもトップクラスに恵まれた同期たちを見て

あまりのスタート時点での違いに圧倒されたと、先日、吐露した。

だからと言って自分が歩んできた道のりを否定する気はない、と、

早い段階でそれに気がつくことにメリットがあるかどうかはわからないといわれ

「まあ、底辺を知っていることにどんなメリットがあったかはわからないけど」と

そんなことに気がつく能力だけは群を抜いている娘の発想には頭が下がる。

話を「何ものにもなれなかった」に戻して、

ほとんどの人間は何ものにもなれず、

何ものにもなれない自分を責めるより、今、何とか生き延びてきている、

とりあえず、大きく人を損ねることもなく、大きく金に困ることもなく、

すむところがあって、結婚していれば相手となんとかうまくいき、

子供がいれば、大きな病気もせず、学校を嫌がりもせず通っていれば

それで十分満足できるのではないか。

そんなにも「何者かにならねば!」と世界を救う使命感に囚われて生きてはいない。

世間が求める「普通・フツー」から、何とか大きく外れることなく人生を歩む

その努力だけで、たいていの人間は満足しているであろうことを書くのであった。

世間、というか、主にマスコミだが、昔からマスコミは恵まれた環境にお育ち遊ばした

素晴らしい方々が多いので「普通」のレベルが相当高く、

その「普通」に一般庶民は何とか頑張ってようやく到達できるのが「現実」であると

ま、この先こんな考えが「フツー」になるとも思えないけどな。

満たされずに生きることがそこまで辛くないのも半世紀以上生きた人間の到達点だと

何者になる機会などなかった私は思うのだった。

周囲に医者しかいなければ医者であることが「フツー」だろうが、

世間で医者はやはり希少性の高い職種なのでそれで十分だろ、と思う底辺民より。

おわり。