理不尽の応酬、、

 

仕事に関しては30年近く働いていない私には何も言えないけれど、

「愛」があるかどうか、のたとえは本当にその通りで、

「できる」「できない」の差はどうしても個人間ではあるもので、

それを補い合うのが同期ではないか、できなくても努力する、努力の姿勢を持つ、

それから助けてくれる同期に感謝をする、それさえできない

助けてもらって当たり前、むしろもっと俺・あたしのためにつかえろ!みたいな、

そういう「仕上がり」の人間がそれなりの組織の中にもぐりこんで、

またそういうやつに限ってやはり強い、強いコネクションがおありになる。

たいていが切るに切れないお得意様のご一族であったりして、

私の知る限り、「ノー」が言えない受注先に押し付けられるご一族の一員は

高確率でとんでもなく出来の悪い奴で、

そもそも出来が良ければ一族と同等か、

もっと出来が良ければもう少し上の組織に入ってコネクションづくりをする、

それが「できない」と若干一族にも見放されがちなのがコネで押し込まれてくる、

その見返りに大きな仕事をもらうんだろうけれど、こういうのってどうなのかな。

娘たちが社会に無事巣立ってから、世間話をすると

社会階層の上のほうは相当コネクションがまかり通る、

コネもあって出来も良くてならば素晴らしいが、

コネだけあって出来が悪い、学歴はそこそこをつけてもらっている、

でもそれもまたコネクション、あるいはお金の力業だったりして、

そういうのが公立の雑草育ちと行きかうと、お互い理解不能で機能不全が起こる。

機能不全を起こす前に雑草育ちがやり過ごすんだけれど、

理不尽を目の当たりにするとやはり人間は腐るよね。

雑草育ちにとってはこれだけ恵まれて何でここまで出来が悪く育つんだ?と思うし

出来は悪いが金・コネもちの人間は

こんな有象無象のほうがこの俺、あたしより何故評価が高いんだ?

とたぶん思っていることだろう。

努力する人間がこの世の中にはいるのよ、ってことを20年以上生きても学んでない、

そのあまりの恵まれぶりが親世代の私にはまぶしすぎて目がつぶれそうだ。

いつまでも出来の悪いのを押し付けて印象を悪くするのも申し訳ないと思うのか、

最近は次の行き先を見つけ次第ジョブホップしてくれるようで

要するにたいていの場合、粘って3年、大体2年くらいで転職してくださる、

大手企業はその点で本当にありがたいよな、と思うのでした。

社会にはいろんな理不尽が横行するものだが、

半世紀生きてもまだ驚くべき理不尽を見つけるのは人生修業が足らんのかね。

とほほ。おわり。

「ふわっとした」学歴問題、、、

世の中には、良く知らなければ一見「出来が良い!」と思わせる経歴があって、

文系で有名な大学になぜか付属品のようについている理系学部だとか、

その反対の理系がメインの大学の文系学部とか、

一応旧帝大ではあるけれど、何のために作ったんだかよくわからない学科と思ったら

実は良家の帰国子女ばかりがたむろっているところであったり、

「工学」とつくから一見「理系」に見えるんだけど

それに「応用何とか」があるとやってることは実は経済系だったり、

「名前だけはよく知られているけれど、中では微妙な立ち位置の学科」卒業者が

「我こそは〇〇大学の代表者!」のような顔をして、

実際はあまりの出来の悪さに大学全体のイメージを損なったり、

こういう「ふわっとした学歴」を持った人間たちの問題を

そろそろ世間は指摘するべきではないか、とかねがね思っているんだけど、

いち早く社会の問題を指摘するべきネットが、

実のところこの手の「ふわっとした学歴」の人間が相当数跳梁跋扈するところで

そもそも「システムエンジニア」って本当は「エンジニアじゃないから」と

ゴリゴリの機械工学をおさめたうちの娘なんかは言うのだよな、

「工学って本当は実際にモノを作る勉強で、そのモノを使った中での

システム構築は本当は文系の仕事なんだけど、あまり知られてないね」と

「システム」と「エンジニア」の言葉は本質的には相反する概念であると

考えているようで、なるほど、と思ったりすることがある。

脱線してしまったが、ふわっとした学歴を持っているけれど、現実には何もできない、

そういう人間が増えすぎているのはもっと知られるべきじゃないか。

なんとなく「できる!」ように見せているけれど、実際は何もできない。

ふわっとした学歴の人間よりははるかに高専卒の人間とか、

いっそ、工業高校卒業の人間のほうが役に立つ、

そういうことをここ数年、見てきたりして、なんか暗澹たる思いに駆られる。

それなりの大卒・院卒を標榜する人間が実際は高卒の子よりも下、

みたいな事実、もっと知られるべきに思うおばはんであった。おわり。

 

ニュータイプに出会う、、、

下の娘が今夜帰省してくる予定。

先日まで受けていたハードな研修で「同期の人間性を見た!」と、

研修はグループ課題と個人の課題を同時に進めるもので

グループ内に個人の課題しかやらない奴がいて、

グループの課題は彼がしないと次に進めないのでしぶしぶほかのメンバーがやって

二重に課題をやったメンバーの個人の課題の出来が遅れても

平気で自分だけの課題をやり通した。

そのくせグループ課題の評価が第2位だったのを

「自分がみんなをまとめてやり切った!」感を上に出しまくって

どれほどほかのメンバーの冷ややかな視線を浴びても全く気にしない、

研修中は配属先の上司やもっと上の人間が時々様子を見に来るが、

そんな時はまるで飛ぶように駆けつけて

「今度、飲みに連れてってくださいよう」などと、

あきれるほどの愛想の良さで媚びを売りまくる、

グループ課題をしないのに腹を立てた娘が注意をしても

「え、なんか言ってる?」の完全に小ばかにした聞こえないふりで無視をする、

しかし上の人間が見ているときはやたらとフレンドリーに

「女子を仲間に引き入れて大活躍する俺!」な雰囲気を醸し出し、

娘は「もしあんな奴が私よりも先に出世するならこの会社を辞めるから」と

珍しく怒り狂っていた。

彼の配属先の事業所は微妙な立ち位置で、必ずしも出世コースとはいいがたい。

全体での成績は徹底して自分のことしかしなかった割に下位グループの中程度で

学歴は学部が私立卒、大学院は文系で有名な国立大学の理系学科でなんとも微妙な、

 話を聞くに、下の娘が今まで会ったことのない「ニュータイプ」のいやな奴で

底辺中学にはこの手の人間はいない、

おそらくは私立学校育ち、「ふわっとした経歴」を手に入れるのだけは異様に上手、

この話は先日上の娘が帰省してきたときに二人で聞いて

上の娘はこの手のタイプと高校時代から付き合ってきて、

今もたまに職場にいるので、そういうやつを仕事させるように持っていくテクニックを

下の娘にアドバイスしていた。

しかし「そんな奴に無理に仕事させても大したことができるわけじゃないから、

早めに上手に排除するほうがその後の手間が省けて良い」と

事業所が別なので一緒に仕事をすることはなさそうだが、

ここまで同期に嫌われて、これからどうするのか、

上の娘いわく「やめるんじゃない?出来ないことがわかったら針の筵だよ」と、

「でも出来るふりしてほかに行くんだよ、おかしいじゃない!」と、

高校からゴリゴリ理系で、できる人間しか今まで周囲にいなかった下の娘は

憤っていた。

「できるふりっていつまで続くのかな?

そういうごまかしばっかりして年を取るんだよ、

少なくとも個人だけの成績だと、下位の中ぐらいにもなってなかったよ、

グループが2位だったから、点数が上がっただけでしょ、ただのバカじゃん」と

上の娘はあくまで辛辣であった。

それにしても理系の総合職にもこの手の人間が混じるのに驚かされる。

ただ、私が思うにそういう必死アピールも仕事がそこそこできてこそ、

多少意味もあるだろうが、できなければそれで終わり、

配属先でどの程度のことができるか、別グループで彼と同じ配属先の同期に

 とっくに情報は流れているのでどうなることか。

しかし娘以外のほかのメンバーがおとなしく彼を無視して黙々と課題をやり続けたのは

ある意味すごい、と私は思ったのでした。

彼らは「お前、できないじゃん、ここにいる資格はないよ」すら言ってくれない。

そう思われても平気でいられる彼のメンタルはどうやって作られるのか、

仕事を長く続けたことのない私にはいまだ謎。おわり。

朝日新聞雑記。

数日前の朝日新聞に、

聞いたこともない大学の先生で聞いたこともない映画の監督が書いた

ショーン・コネリーの追悼記事があって、内容がほめてるんだかけなしてるんだか、

英国本土ではスコットランドなまりの抜けない労働者階級出身だったというだけで

世界的スターがこんなよくわかんない映画監督に上から目線で語られるって

ショーン・コネリーも気の毒だな、と思ったばかりだったが

先ほど見かけた記事では

日本の上級国民である池袋・加害者家族の「苦労」なるものが取り上げられて、

上級国民が加害者になったから朝日新聞でも「かわいそう!」となるんでしょう。

その辺の下層民が加害者家族になったとして

「かわいそう!」と朝日新聞のネタにしてもらえるかね?

そのあたりの意識が全くないメディアはすでにそれに携わる側が上級であると、

ため息が出る。何気にあまりに上から目線過ぎて、腹も立たなくなったわ。

池袋の事件ではとにかくどんな力技を使ってでも、加害者家族は守られるらしい、

というのがよくわかって、本当に生まれ変わるなら上級国民よね、、などと、

なんだかんだで池袋暴走事件は「上級国民」という言葉を

完全に定着させたとして残るんじゃないか、

裁判より前に慰霊碑がたつって、それ、被害者の方々、望んだかね?

どれほど隠そうとしたところで、かの家族に優遇措置が取られている事実を

言葉で隠そうとする、しかも大手のメディアまで出てきて、と、

なんだかなあ、加害者家族がそれまで恵まれてきただけに

立場のつらさはわからなくもないが、

もっともっとつらい、妻子をなくした夫や娘と孫をなくした両親の立場を

思いやることはできないものか、

「私だってかわいそうなんだ!」は

いつだったか「私だって寝てないんだ!」と逆切れした経営者を思わせて

立場は上級でも心は下層、みたいな人が世の中、高確率で居るよな、

朝日新聞関係者もそういう人、多そうだよな、と思ったのでした。

私は仮に池袋事件の家族を現実世界で知っていたとしても、

彼らに石を投げることは積極性がないのでしないだろうが、

「やっぱりね」ともし思うとしたら、

平時のその家族の在り方に問題があった時だけだろう。

他者を意識せずに見下してきた人間が初めて見下される側になって

衝撃を受けている、そんな感触を私はこの一連の動きに見ている。

日頃の行いは大事よね、、

と言って下層出身だと成功しても死んだ後の追悼文が微妙に上から目線になる、

ショーン・コネリーなしにジェームズ・ボンドのあの世界的大成功は

なかっただろうに、それでも「娯楽作品」は見下されるのね、朝日新聞からも、

と思ったのでした。切ない。おわり。

 

 

芸能ニュース・あれこれ。

マッチなんてとっくの昔に引退して悠々自適生活を送っているものと思っていたな、

悠々自適過ぎてついやらかしちゃったか、と思ったら地味に仕事をしてたようで。

なんとなく「今更?」感がありありなのは私だけなのか。

私はいまだに三浦春馬君の在りし日の姿を見かけると滂沱と涙が流れるんだけど、

夏のあのショックな日のすぐ後も、今になっても、まだ彼の母親叩きが酷くて

弱い立場の人間を心置きなくたたくのはそんなに楽しいですかね?

とやってるマスコミに聞きたくなる。

あんたたちが彼女をたたくのは彼女に何の後ろ盾もなく叩きのネタに

事欠かないせいでしょう。

飛び切り出来の良い一人息子を失ったばかりの年老いた女性を

ここまで楽しげに叩く人間がいると思うともの書く世界って何なんだ、

彼女一人をたたいておけば、ほかの多くの有名俳優を抱える事務所は

叩かれずに済むという「忖度」をやってるんですかね?おいしい仕事やね。

先ほどは本当かウソか春馬君の遺産云々でもめている、などと、

少なくとも子供のころから下積み時代もずっと支え続けた母親のほうに

せめて遺されたものは行くべきではないのかな。

私は最近、息子と付き合いを始めたという実の父親のほうが信じられないわ。

どのような事情があったにせよ、売れ始めるまでの苦労を共にしたのは母親のほう。

すべてを母親に譲るのが筋ではないのかな、

その道筋で事を進めようとしないのは、何らかの利権を事務所が独占したいのか、

30になった息子が一時期にせよ、母親と疎遠になるのは当たり前のことで、

「疎遠になっていた!」云々と、さも母親が一人悪者であるかのように

かけがえのないたった一人の息子に何の権利もないかのように、

記事を書く人間のその面を見せろ!と私はしみじみ腹を立てている。

私生活でも周囲にやさしかったという春馬君が

自分のせいで母親が叩かれるのを小気味よいとでも思ったかな、

きっといたたまれなく思っただろう、他人にやさしい人は親にも優しかっただろう。

どのような裏事情があるにせよ、子供を失ったばかりの母親一人を

叩きまくる、芸能ニュースなんて滅べ、と心から。

出来るだけ読まないようにしてるが、つい、うっかり。

まあもめてる、となれば遺産、権利関係だろうな、と察しはついたが。

自分の家族ができるまでは、母親から離れないほうが

春馬君にとっては良かったんじゃないか、などと考える。

相互依存であっても、それで生をつなげられたとしたら、それでよかった気がする。

私はまだ、彼がいなくなったことがとても悲しい。きっと、そんな人は多い。

おわり。

 

雑談。

話題のエントリで久々に琥珀先生をお見掛けして読むとホットにあった「〇ームレス」話題。

読んでないしこの先も読まないので琥珀先生の記事から推測するに、

これもまた「炎上マーケティング」なんじゃないかな。

燃えそうな話題をわざわざ取り上げて「どうかと思う!」の意見を運営が作って

人を集め、読ませる。

「悪名は無名に勝る」はネットで知った言葉で、

今話題のパ〇ナ関係者が誰かの言葉を引用して使っていたのを見た気がするが

私はシェイクスピアのセリフかと思っていたら日本の政治家の言葉らしく、

出典はあいまいだった。

それはともかく、「炎上マーケティング」を見るたびこの言葉を思い出すが

本当に無名であるより悪名を持つほうがましか、といえば

小市民発想なのか、私は悪名をはせるよりは無名であるほうが

よほど安楽に暮らせるだろうにと思う。それでも「有名」には価値があるかね。

これは「注目されたい!」で犯罪をする人間の発想と同じで、

決して褒められたものでは無かろうに、ネットでは多用されるようだ。

今回、琥珀先生が取り上げている記事は「貧困問題!」のスピンオフのようで

「貧困」のレジャー化があらわになったかと感慨深い。

階層が分化すればするほど貧困は非日常を味わう一種のスパイスになる、

この傾向は大昔からみられているものだ。

私がよく知るのはディケンズ時代、つまり大英帝国最盛期であるヴィクトリア朝期、

貧困を見世物にして金を稼いだ、これは金を集める苦肉の策の場合もあるが

たいていが出歯亀根性、いくばくかの金を支払うことで自身の優越性を確かめる、

恐ろしく悪趣味な行為だったのだが、これがどれほど時代を経ても廃れないのは

まことに興味深い。人間は他人の不幸が好きなんだろう。

貧困問題で名を上げるのはこの5年ほどのはてなで再々繰り返されてきたことで、

それが今度は関連会社に移ってきたということかな。

やらせ炎上でどの程度アクセスが見込めたのか、

はてなで不思議なのは一時期やたらと「マーケティング!」「マーケター!」が

あちらこちらに出没したにもかかわらず、

この手の数集めの結果を詳細に分析した数値を見せた人がいないこと、

企業秘密、ってことなんでしょうかね?本当に集まってるんですかね?

しかし貧困がレジャー化しているとは階層分化があからさまになっていると同時に

時代がある程度安定している証左でもあるのでゆるく受け止めてよいんだろう。

ヴィクトリア朝期の貧困レジャーの一つに、善男善女が孤児院を視察して回る、

視察と言いつつ、実際は安く使える小間使いを見つけるためであったり、

「〇〇を見てきた!」が一種のステイタスだったりしたので、

人間は時代を超えて常にえげつない。

すでに人間であるだけで悪名は十分備えているというのに、

それでも有名になりたいものかね、ってなことを考えるおばはんなのでした。

おわり。